適塾と大村益次郎(今でも望めば何にでもなれるのか?)

適塾  蘭学者で医者の緒方洪庵が江戸時代後半に開いた蘭学塾。

大村益次郎(村田蔵六) 幕末の長州征伐や戊辰戦争で、討幕軍側の重要な戦略をほとんど企画した天才的軍略家。討幕軍の勝利にとっては欠くことができない人物であったと言われる。そして、日本に初めての近代的な軍隊(国民皆兵制度による軍隊)を創設した。これにより明治維新という内外の危機的な状況において、欧米列強から日本が侵略されるのを回避する道筋が作られた。

 幕末に長州藩の片田舎の村に住んでいた村田蔵六は、村医の息子で身分的には百姓でした。

しかし、向学心から当時有名であった大阪の緒方洪庵の適塾に入り蘭学・医学を学びます。

適塾ではたくさんの塾生が将来医師になって栄達することを夢見て、日夜狭いスペースで深夜まで灯りをともして勉学に励んでいました。

 当時身分制度は非常に厳しいものでしたが、医師だけは例外的で、優秀であれば身分を超えて出世をすることができたのです。

 この話は、司馬遼太郎著「花神」に詳しく書かれています。


 蔵六は、適塾でがむしゃらに勉学に励みます。そして塾頭にまでのぼりつめます。当時適塾の塾頭となれば、その経歴は非常に高く評価されるものでした。

有名な福沢諭吉も適塾の塾頭です。

 そして蔵六は政治的な事情もあったのですが、百姓から武士になります。江戸時代の身分制度の中では例外中の例外です。

 さらにその軍略面での天才的な能力を買われて、長州藩の軍の指揮を一手に任される地位に立ちます。その後戊辰戦争を経て日本陸軍を実質的に創設した功労者として大村益次郎の名で後世に名を遺すことになりました。


 蔵六は、江戸時代の士農工商という身分の壁を破り世に出ましたが、本人には格差を破るというような意識はなく、ただ燃えるような向学心があり、その結果として周囲に頼られているうちに、偉大な功績を遺すことができたのだと思います。

 現代にいても村田蔵六であれば、おそらく優秀な学歴を経て医学界で素晴らしい業績を遺せたに違いありません。

 江戸時代よりも今は、能力を磨きさえすればそれを生かせる時代になっているのですから…。


 最近、マスコミなどでも格差社会のことが取り上げられることが多くなりました。そして、親の経済力が子の学歴を左右するということもよく言われます。

 確かに、一つの要素として言うならば、当たっているところがあるかも知れません。

 しかし現代は、子どもが何かを目指すのに初めから道がすべて閉ざされているというようなことはありません。またインターネットの普及で 、世の中でもっとも貴重な資源である「情報」というものを、一部の人たちが独占することができなくなってきており、現在基本的には誰でもこれに自由にアクセスすることが可能です。

 経済力だけですべてが決まる訳でもないのです。

 そしてどんなに状況が大変でも、江戸時代に百姓が武士になるよりは間違いなく容易なはずです。

 私は、条件が厳しい場合はもちろんあるとしても、それでも現代の日本は今でもまだ「なろうと思えば何にでもなれる」社会であると信じたいです。

 微力ではありますが、進路についてアドバイスする時には、熱意のある子どもの未来を信じて、情報を集め、少しでも多くの選択肢を提示してバックアップしてあげたいと考えています。


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