国家の未来【官僚の目線はいったいどこに?】

 最初にお断りしておきますが、私は経済の専門家ではないので、今日書くことはあくまで庶民の素人考えだと思ってお読みください。

 国家の実質的な運営は、我が国では 明治維新以来 優秀な官僚によって担われてきました。

 政治が迷走するときには、官僚こそが国家百年の計をもって、冷静に行政実務を行わなくてはならないことがあります。政治家が頼りにならない時は、一層官僚の力が私たちの頼りです。

 彼らの多くは熾烈な受験競争の勝者であり、優秀な成績で東大を卒業して、理想に燃えて国のために仕事をしている。そして、時にブラック企業顔負けの激務にも耐えて日夜日本のために尽くしてくれている。少し偏った考えかもしれませんが、私は最近までそう思っていました。

 城山三郎著「官僚たちの夏」に描かれる高度経済成長を推進した通産官僚たちの姿のような、理想に燃える人たちを想像していました。 


 以前、日本が多額の債務を抱えていることが報道され、1100兆円に上る借金があり、国民一人あたりで換算すると850万円になるという話がありました。

 大変な金額ではありますが、日本の借金については、財務破綻をしたギリシャなどと異なり、債権者(国債保有者)の約半分は国民であり、残りも日銀(政府とつながりのある公的機関)などであって、実はさほど心配するようなことではないという主張がされています。

 しかし、財務省はこの日本の多額の借金を理由として、2025年までにプライマリーバランスを均衡化して財務の健全化(黒字化)を図るという考えを、いまだに変えないようです。

 今回の消費増税をはじめとする昨今の国民の負担増加は、社会保障や少子化対策などを名目においてはいますが、実質のところ、政府が国民に多額の借金をしているという状態が、バランスシート上では健全でないので、増税によりバランスを戻すということがその基本にあるようです。

 これは簡単に言うと、こういうことです。

 家庭内で母親と子どもに一時的にお金を借りた父親が、家の運営には全く困らないのに、「おばあちゃんが大変なんでお金がいるんだ。お前たちにお金を返せばなんとかなるから、お前たち、そのためのお金を出して」と言っているようなものです。

 笑ってしまいますね。当然母親と子どもたちは怒ります。 


 この他にも、最近の官僚発想の新しい施策には、「なぜ?」と首をかしげるものがあります。私見ですが、次第に庶民の現実の暮らしと施策の間に乖離が生じてきているような気がします。

このように感じるのは私だけでしょうか?

 プライマリーバランスが不均衡であることは数値上明らかなことであり、これを何とかしようとするというのは、仕事として間違いではありません。

 しかし、そこには財政が誰のためにあるのかという視点が大きく欠けていると思います。財政というものは政府のための計数を何とかするための道具ではなく、究極的には目の前で暮らしている国民の財産権をはじめとする基本的人権を守るためにあるのです。


 我が国の教育は明治維新以来、言ってみれば富国強兵のための教育でした。その一環として能力のある一部のエリートが官僚になり、実質的に国家を動かしていくというスタイルが形成されてきました。

現代は価値観が多様化して、このスタイルはかなり変わってきていますが、エリートが官僚となって国家的な事業を担っていることには変わりがありません。

 ノブレス オブリュージュ ( noblesse oblige)  という言葉があります。

「高貴さは義務を強制する」というフランスで生まれた言葉で、多くの財産を保有する者や社会的地位の高い人は、それに応じた重い責任や義務があるという考え方です。

 現代の日本には身分制度はありませんが、国民に対して義務を生じさせる立場にある者にはこの考え方を求めてもよいと思います。

官僚が、現実の国民の生活をしっかり想像できないようでは困るんです。わかってやっているのかも知れませんが…。

 願わくば、この国の未来を担ってこれから官僚になる人たちは、常に国民に目を向けて思考するというような、ごく当たり前のことだけは見失わないでほしいです。

 そして、それを実現することができるのは、やはりこれからの教育の力ということになるのでしょうか。

庶民の私たちが言えるのは、そんなことぐらいです。


 

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