【黒船造船】模倣という成功の近道とは?

黒船を造った藩

 幕末(1853年)に浦賀に黒船が来航した話は誰もが知っていますが、これを知り黒船を日本人がすぐに造ってしまった話はご存じのない方も多いかも知れません。

 薩摩藩では名君島津斉彬(なりあきら)の命で、早くから外国船の来訪を察知して蒸気船の製作に着手しており、書物の情報だけで黒船来航後まもなく黒船(自走できる蒸気船)を完成させています。

 最初の国産蒸気船であるこの「雲行丸」は黒船来航の2年後には航行に成功しています。

 佐賀藩でも鍋島閑叟(なべしまかんそう)が実用的な国産蒸気船「凌風丸 」を1865年に完成させています。

 鍋島閑叟は当時の日本の常識を超える新兵器アームストロング砲の独自製作を行ったということでも有名です。

 さらに、 幕末の四賢候の一人宇和島藩の伊達宗城(むねなり)は、外国人の関与を受けず日本人だけで同時期に黒船を完成させています。

 蒸気船建造の知識も経験もなかった提灯職人の喜蔵(後の前原巧山)と蘭方医の村田蔵六(後の大村益次郎)に命が下され、黒船を短期間で独力で完成させた話は有名です。

 大村益次郎については以前記事にしましたがhttp://wizzseiun.com/2019/09/20/tekijuku/、蘭学に詳しいというだけで、全く畑違いの蒸気船建造を命ぜられたのに、言われるままにそれを完成させてしまったというのも、本当に驚くばかりです。

幕末の日本人の能力の高さ

 江戸時代の鎖国政策が外国の情報を遮断してしまったために日本人は世界に取り残されたような感がありますが、

実はそうでもなかったようです。

 色々なルートで外国の情報は入ってきており、たとえば薩摩の島津斉彬は、海防の必要性を感じ早くから数々の開明的な事業を行い、その中で蒸気機関の開発も行っています。

 だから黒船が来訪していち早く国産蒸気船を完成させることができました。

 そして何よりも幕末の日本人の能力の高さを感じます。

 黒船が到来して「これは大変だ」という危機感を持つと同時に、いろいろな方法を考えてわずかの期間に独自に黒船(自走式の蒸気船)を造り上げてしまったというのは大変素晴らしいことだと思います。

 アジアの各国に黒船がやってきましたが、日本だけが黒船を見様見まねで自国で建造してしまいました。

 欧米の国家も黒船を売りつける相手になる国はあっても、まさか黒船を自作してしまう国があろうとは思わなかったようです。

模倣は学習の基本

 「模倣」というと「物まね」ということであまり印象がよくない言葉のような感じがしますが、

実は学習はすべて「模倣」から始まります。

 独創的な発想やアイディアも全く何もないところから湧いてくる場合はほとんどなく、そのベースには見本となる知識があることが多いと思われます。

 逆に「よくまねることができる」者が、新しいことを創り出すことができるという面もあるのです。

 幕末の日本は海外の国に比べて産業面や技術面では大きく遅れをとっていました。

 しかし優秀な人材は非常に多く、その人たちが新しく入って来る情報を次々にキャッチして、これを即座に我が国のためのものに変換をしていくことができました。

 そのために、産業でも技術でも一気に日本が外国に比べて遜色のない実力をつけることが可能になっていったのだと思います。 

学習を独創と勘違いしないことの重要性

 私たちが何かを学ぶとき、それがクリエイティブなジャンルのものであった場合、得てして「独創」だけが大切と思い込んでしまいます。

 しかし「学ぶは『まねぶ』」という言葉もあるように、まず謙虚にいろいろな物事をよく観察して、それを模倣することをスタートにすることが、真の独創の近道であるような気がします。

 キュビスムの創始者として有名なピカソの絵を見た人は、その独創性に驚かずにはいられません。

しかし有名な話ですが、ピカソのデッサン力は極めて高く基本的な画力は相当のものであったようです。

ということは様々な先人の絵画を模倣して学んだ後にあのような独創性が花開いたと言ってよいでしょう。

 私たちもまず良いものをとにかくよく観察して、これをしっかり模倣して基本を作りあげていくということを、物事の開始において行っていくべきなのだと思います。

 今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。


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