心を重くしているものは何ですか
おそらく多くの人、いやほとんどすべての人が
毎日何かしらのノルマを与えられ、あるいは自ら設定して
それを果たそうと一生懸命働き、勉強し、
そして他人のために尽くして生きていると思います。
でも、未来まで遠く見通して
いつも楽しく過ごせているという人は
実は少ないのではないかと思います。
特に近年の日本人は、他の国の人々に比べて
「日常生活を楽しむ」というのが、とても苦手になってきていると思います。
いや、苦手と言うより経済的または時間的に大変になってしまって
「楽しむゆとりがない」と言った方が正確かも知れません。
心を重くしている「何か」があるという人が多いのではないでしょうか。
バブル全盛期の気分
私が大学を卒業した頃、いわゆるバブルの最盛期がやってきました。
今振り返っても驚くようなことばかりでしたが、
あの頃、人々の気分は「このまま日本は最高の状況が続く」という感じで
根拠もなく、明るい未来を信じ切っていたように思います。
経済的に上手くいっていると人は結構楽天的になるのだと思いますが
私の友人は大卒1年目なのに、年の後半にはすでに月に100万円近い給料をもらったと言って当時喜んでいました。
毎日飲み歩き遊び歩く毎日だったと言っていましたが
そんな状況であれば、未来に無限の夢を描くことも、当然と言えば当然だったのかも知れません。
しかし、その後バブルが崩壊してからの人々の変貌ぶりも極端でした。
今では、大卒20万円もなかなか難しい社会になりつつあります。
長い間経済的な低迷が続く中
日本人はすっかり自信を失ってしまっているように思います。
「空の鳥を見なさい」
タイトルの「空の鳥を見なさい」というのは
イエスの言行を記したとされる『マタイの福音書』に書かれている一節の冒頭です。
英文を直訳するとこうなります。
「空の鳥を見なさい。種も蒔かず、穀物の刈り入れもせず、倉に収穫を納めもしない。それなのに、あなたがたの天の父は鳥も餌を与えて下さる。あなたたちは、彼らよりももっと価値があるのではないか」
考えてみればその通りですね。
人間は、「働く」という行為を通して、他人の役に立つように努め
あるいは「学ぶ」という行動を通して、自己実現に向かって進もうとする生き物ですが
あまりにそのことに集中しすぎて
私たちは、自分で自分を追い込んでしまうことも、また多いような気がします。
私たちの思考とキリスト教文化圏の思考には少し違いがあり、「労働」をそれほど価値の高いものとは見ないキリスト教文化圏の考え方が、この一節には若干含まれているようには感じますが
逆に私たち日本人は、「勤勉」過ぎる部分があり
それが自分たちを強く縛ってしまっていることも、はっきりしています。
そんな私たちの感覚からすると
この一節はとても新鮮で、教訓になる言葉のような気がします。
心にゆとりを持つ
私たちにありがちな思考は
努力、勤勉、調和というような理念に沿って、毎日を一生懸命勤め、勉強して
日々進歩して進んでいくという感覚をベースにしたものだと思います。
結果を出す要因が自分の範疇の中にあって、努力が適正に報いられれば
それもやりがいのある事ですが
高度経済成長期からバブル期まではともかくとして、今の社会では、なかなかそうもいかなくなっています。
既得権益を主張する集団や人々による、利権ばかりが幅を利かす社会になってしまっている上に、政治のレベルがこれでもかという程に低下してしまって
税金の制度さえ、実質的に利権者のためのシステムになりかけてしまっています。
新しいチャレンジをする人々のチャンスが奪われているのはもちろん
一生懸命勤勉に働く人が、普通に幸せな人生を送っていくことさえ
今ではもはや、ハードモードになりつつあります。
批判をすればキリがないので、これくらいにしますが
こんな時代だからこそ、自分を責めることなく少し気楽になる必要があるのではないでしょうか。
私たちは、一生懸命やって何かに失敗しても
何かを失っても、人に比べて勝ることが何もなくても
生きているだけで価値があるのです。
競争をするために人は生まれてきたわけではないからです。
私はよく飼い猫の顔を見て思うのですが
猫は能力が高くなくても、ほかの猫よりかわいくなくても、
たとえば偏食があってわがままでも、
飼い主は、その猫をありのままで愛してくれます。
むしろ変なところがある方がかわいかったりしますよね。
これと同じじゃないでしょうか。
人の価値は、他者との比較の中で決まるものではないというのが
実はこの世の中の重要な真実のような気がしています。
もし創造主がいるのならば、
うまくいかなくて失敗だらけのあなたを
「かわいいやつ」とほほ笑んで見ていてくれているに違いありません。
肩の力を抜いて行きましょう。
必ず良いことがありますよ。