微笑んでいる仏像とモナリザ
日本に住む私たちは、いろんな機会に仏像を目にします。
私は仏像の専門家ではないので、詳しいことはわかりませんが、
ほどんどの仏像はやさしく微笑んでいます。
一説によると仏像の笑顔は、古代ギリシャのアルカイク美術に由来するものらしいですが、その独特の笑顔(アルカイックスマイル)はとても印象的です。
顔の表情を極力抑えながら、口元に笑みを浮かべるこの微笑みは、受け取る側の見方で色々な見方もできる謎の微笑みでもあります。
有名な「モナリザの微笑み」もこのアルカイックスマイルの一種だと言われているようです。
菩薩なのになぜ皆笑顔なのか
仏教用語で菩薩(ぼさつ)というのは、悟りを求めて修行をしている人のことを言いますが、
その中でも観音菩薩は、人々の声を観じて(深く体感して)苦悩から救う使命を持った菩薩です。
いずれにしても修行が完成していない段階の人が菩薩ですから、当然苦しみや悲しみを持つことも普通の人より多かったのではないでしょうか。
しかし仏像になっている菩薩は、皆やさしい笑顔を浮かべているのです。
なぜこのような表情に造られたのでしょうか。
それは多くの仏典にも書かれているように
「一切皆苦」(世の中の苦しみというのは消すことは不可能であること)
「諸行無常」(すべての物事は移り変わり固定ではないということ)
とあるように、何事も自分の思い通りにならないのが現世であり
当然そのことを前提に生きている以上
「暗い顔をしていても始まらない」という考え方が、背景にはあるのだと思います。
菩薩あるいは悟りを得たブッダでさえも、「つらいことがない」というわけではないのです。
人間である以上、つらいことや悲しいことがあるのが当然なのに、
「何事もなかったような顔」をして微笑んでいるのが凄いのです。
そして、そのことを表して造られたものが、本当は仏像の始まりなのではないかと思います。
だから「菩薩はいつも楽しそうでいいなあ」なんて言うのは大間違いであり、「悟りを得ている偉い人だからつらいことがない」という訳ではないのです。
見る人を明るくさせる笑顔
仏像の表情の背景には、このような「悟りを得ればつらいことがなくなる」というより
「つらいことがあっても表情に出さないという精神の在り方」が隠されているとしても
さらに一歩進んで、微笑みまで浮かべている訳は何でしょうか。
その理由はおそらく次のようなことだと思われます。
大変な状況に遭っている時に、「他人に自分のつらさを渡してしまうことがないように」微笑んでいるのです。
つらいことがあったときに
自分だけ暗い顔をして不機嫌になって、感情的になったりするのは無理からぬこともありますが、
菩薩が微笑んでいるのは
「せめて自分のつらさは自分の中で留めておき、世の中に流出させないでおこう」という考え方が、そこにあるからではないかと思います。
私たちは、楽しくて仕方がない人が笑顔でいるのを見て「素敵だな」と思いますが、
自分のつらさは少しも表さず、穏やかにやさしい笑顔を絶やさない人を見て
それよりも、もっと大きな何かを感じることがあると思います。
仏像が私たちに与える崇高な印象の元は、実はこのような思想にあるのではないかと思います。
普通の人間にはなかなかできることではありません。
しかし、だからこそ仏像の笑顔は有り難いものであり、
「私たちが目標にすべき最高の微笑み」なのかもしれません。
おそらく皆さんも、これまでの人生で
「楽しくて仕方がない。自然と笑みがこぼれてしまう」という状態の時もあったでしょうが
そうではなく、心を平穏に保つことが難しいような状況に直面することの方が、むしろ多くあったのではないでしょうか。
人によっては「つらいことだらけ」と感じている人もいるはずです。
しかし、笑顔を作り人と接していると
不思議なことに、他人も笑顔で自分に集まってくることがよくあります。
誰もが「笑顔による癒し」を心の中で求めているからです。
あなたもそうではないですか。
しかめっ面で愚痴ばかり言っている人と、いつも笑顔で楽しいことを言ってくれる人がいれば、後者と話をしたくなりますよね。
逆に考えればそういうことで、
「あなたの笑顔が人を癒し、そこに人が集まり、その人たちの力があなたを助けてくれる」
この世界は、そういう循環になっているのではないかと思うのです。
「つらい時こそ笑顔を」というのは、実際には難しいと思いますが
厳しい状況が続いている時には、鏡で自分の笑顔チェックをしてみるといいと思います。
運を呼び込む事には、意外にそういう事が作用しているような気がしてなりません。
今後も皆さんのお役に立つ考え方をアップしていきます。