【情報リテラシー】身につけよう「思想の自由市場」を探す勘

ホームズ判事の思想の自由市場論

 アメリカの連邦最高裁判所判事であるオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア判事が唱えた有名な「思想の自由市場論」というものがあります。

そもそもはジョン・スチュアート・ミルの発想した考え方とも言われています。

 自由市場と言うのが経済学の用語のため、少し違和感がありますが、

もちろん何かを売っている訳ではなく

「思想の自由市場」とは、人々の意見や主張、そして批判・反論などの言論が自由に行き交うことができる場の事です。

場と言っても物理空間ではなく、目に見えるものではありません。

実質的に、権力者による規制や制約が表現活動に対して一切課せられない状況を指していると思います。

 そして、このような「思想の自由市場」がきちんと存在するときには

言論は互いに競い合い、最終的にはより真理に近い理論に到達する事ができるという考え方です。

本当にそう言い切れるかについては、疑義もありますが、純粋に理論的なものなのでここでは突き詰めて検討はしませんが

この「思想の自由市場(言論の自由市場とも呼ぶ)」の大切さは、誰の目にも明らかな事だと思います。

独裁者や全体主義下の言論

 当たり前すぎる事ですが

独裁者や全体主義下においては、「思想の自由市場」はありません。

せいぜい地下組織などでそれが存在して

「打倒政府」を目標に屈託のない意見が交わされているくらいでしょう。

 検閲の制度により、人々の表現の自由は過度に制約されます。

そして何より、人々が表現の取り締まりを目にして表現活動を萎縮してしまう事が、実際に起こってしまいます。

 正義感を持ち不公平や人権侵害をおかしいと感じていても、自分の生活や家族を守らなくてはなりませんから

人々は重く口を閉ざしてしまうのです。

「思想の自由市場」は議会だけにあるのではない

 言論というので「思想の自由市場」を創り出す場所が議会やテレビの討論会にだけあると思ってしまう人もいるかも知れませんが

「思想の自由市場」はそこだけではありません。

およそ人々が自分の意見を発表できる場所ならば至る所が「思想の自由市場」創出のための空間になります。

 だからどんな所に私たちがいても

権力者が人々の表現活動に口を挟む事を見たら、大いに警戒が必要です。

蟻の一穴から大切な「思想の自由市場」は消失してしまうかも知れないからです。

 そういう意味では、今や表現の自由は大層軽く見られてしまっています。

政府の一員が、国民の素朴な疑問に基づく単なる意見を、よく吟味もせず「デマ」と決めて、その公表を懸念する趣旨を平気で述べるような時代ですから…

権力者は誰?

 ホームズ判事が「思想の自由市場」を語った頃は、おそらく権力者イコール政府でした。

だからその頃は、国家権力の心配だけをすればよかったのです。

しかし現代では、状況が大きく異なりました。

今やマスメディアや巨大な世界的規模のSNS運営企業なとが、良くも悪くも大きな社会的権力を握っています。

もはや国家権力を凌ぐ場合もある状況です。

マスメディアと政治家、SNS運営会社と政治家が対立すれば

たとえ国のトップでさえ失脚をする事があり得る時代です。

だから一個人の意見などはこれらの前では、風前の灯火です。

容易に削除されて、なかった事にされるかも知れません。

でもメディアなどの意見を、圧倒的大多数の人々が信頼している間は、その意見が強い波及力を持って伝播していくのです。

ここではもはや「思想の自由市場」は失われつつあります。

 経済的地位や既存の権益を有する者の意見が正論で、

反対意見による「思想の自由市場」の切磋琢磨は見せかけだけのものとなります。

 実際に人々は毎日の暮らしの中で物事を考えて行動するため、このような世界規模の変化に実感を持てない方が大多数だと思いますが

新しい権力者も生まれ、「思想の自由市場」が日々ピンチに直面している事については、強く意識すべきです。

 そしてこんな状況の中で私たちは

「どこに『思想の自由市場』が残っているのか」に気づく勘を身につける必要があります。

その基準となるのは、やはり繰り返しお伝えしている通り

「そこに反対意見が同じくらい上がっているかどうか」

ではないかと思います。

ぜひ一度この点について、考えてみることをお勧めします。

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