【古典の魅力】なぜ学校の古典は面白くないのか?

古典の魅力

 普通は、中学で古典について学び始めます。

古文と漢文の勉強を習い、古文であれば、だいたいは「竹取物語」や「枕草子」あたりから徐々に勉強していきます。

 最初に古典を学習する際には、英語を初めて学習する生徒と同じで

皆新しい学習に胸を躍らせて学習をスタートします。

教える側もそんな生徒の気分を感じて、つい熱が入るものです。

 ところが、高校に入って古典を学習しだすと

急激に古典への興味を失ってしまう生徒を見かけます。

理系科目のように、独特の理論や複雑性があるともいえず

取っ掛かりは割とハードルが低いので

苦手になるとは限らないのですが、

 「勉強が楽しくない」という感想はよく耳にします。

わからないではありません。

 主語がない古文について、「これは誰が主語になっているか」を考えようという学習(入試にはよく出ます)やら

「歴史的背景を抜きにして読むのは、解釈としては不十分」というような意見とか

そんなことに触れているうちに

すっかり、本来の「古文をストーリーとして読んだり、短歌を自分の自由な空想の中で読み取る楽しさ」というものとは

全く別の難しい学問をやっているような気分になってしまうのです。

「楽しい事は続けられる」という鉄則

 私は現国や古典は大変得意でしたので

学習面で苦手意識を持つことはありませんでしたが

それでも古典の学習については

高校に入った当時から受験が終わるまで

どうしても、今一つ魅力を感じられなかった思い出があります。

 テクニックとして、勉強はできるようになっても

それだけでは満足感がなく

「古文の中身をじっくり楽しみたい」という思いがあったからだと思います。

 それで大学に進学してから

古文や漢文を色々原文を探したりして読みあさりました。

そして

「ずいぶん受験でやっていた古典とはイメージが違うなあ」と感じたものです。

 今は、古典を指導する際には

文章の内容自体についての面白さも生徒に伝えて

興味を持ってもらうようにしていますが

これは本当に単純な話で

「楽しい事は続けられる」というお話です。

古典を嫌いにする解釈のミクロ的な学習

 中3でほとんどの生徒が目にする万葉集の短歌で

「東の野に炎の立つ見えて かへりみすれば 月傾きぬ」という和歌があります。

柿本人麻呂の作品ですが

「東の明け方の光(あけぼのの光)がさすのを見て、振り返って見ると西の空には月が傾いている」という内容で

夜明けに東の空が明るくなって来る頃の

まだ万葉の時代の、壮大な野の風景が目に浮かびます。

 太陽と反対側に月がある状態であることから

この月は満月に近いと思われ

ちょうどそのころ同時に理科で「月の動き」を学習するため

それともリンクして生徒たちは、この歌について興味深く学ぶことができます。

実際にも「これはどんな月ですか」と聞いている学校の過去問題なども見かけます。

(ただ実際には日の出前であること、「傾きかけた」ということから、満月よりは欠けていて、「満月」というのは正確な解答ではないと思います)

細かい事はさておき、普通の読み取り力があれば

目の前に広々と広がる原野風景

壮大な月と太陽(これから昇ってくる太陽の光)のコントラストによる大パノラマ

そんな情景を描くことができ

和歌の中でも名作中の名作と言われる訳が、生徒たちにも容易に理解できるところではないかと思っています。

ところが

この和歌については、解釈を進めていくと

草壁皇子と軽皇子、そして柿本人麻呂との歴史的ないきさつが背景にあることがわかります。

これについては、色々な情報がネットにもありますので、ご覧いただくとまた興味深いと思います。

 また私自身も最近、万葉集について学ぶ地域の会に入ったため、万葉集に触れる機会が増えています。

そんな中では、こういう歴史的な背景もまた興味深く勉強ができたりしています。

 何かを新しく知る、学ぶという事は本当に楽しいですね。

 ただ、古典を勉強する時には

その歴史的背景を必ず知っていないといけないものでしょうか?

知っていたらそれはそれで大変良い事ですが

基本的には

「和歌をそのまま読んで、情景を想像してそれを楽しむ」

私はそれで十分だと思います。特に学校での初学的な学習は、むしろそうあるべきだと思います。

作者の柿本人麻呂も、21世紀の若者が自分の残した歌で

自分の生きた世界を、情景として描いて楽しんでくれると知れば

さぞうれしいことでしょう。

 「草壁皇子と軽皇子の話を気付いてくれ」なんて思わないはずです。

先生の熱心さが逆効果になることも

 学校の先生には

小中高問わず、古典には強い思い入れをしている先生が

結構いるようです。

良い言い方をすれば「熱心で古典という素晴らしい文化を伝えたいという熱意がある先生」

ということになりますが

これが、古典を学ぼうとする生徒の関心を失わせてしまうこともあるのも、また事実です。

単に情景を想像するだけでなく

 「草壁皇子と軽皇子のいきさつまでわからないといけない」

というのは

少し普通の生徒には、荷が重いようにも思います。

「目の前の文章から、何かを連想したり学び取る」

それが本来の読解なので

古典学習で、それに文面からはうかがい知ることのできない外の知識が入り込むことに

学習者は戸惑いを感じるのです。

本当に興味があれば、そういうことを知っていくのもいいし役に立ちますが、

そうでないのに、一生懸命

「この『傾きぬ』は草壁皇子の死を表している」なんて覚えても

初学者には大変になるだけかもしれません。

要は

「文章を自分なりの感覚で楽しんで読む」

これでいいのではないかと思います。

前にも書きましたが、有名な歌手の方が

「自分が創った歌も、自分の手を離れると自分の考えたものとは別のものとして、人々に受け取られているように感じる」という趣旨の事を言っていましたが、

古文、短歌、現代文どれも同じで、作者の想いを想像するのはいいけれども

作者の現実の歴史や事実を研究するのは

文学というより、歴史(文学史)的な学習になってしまうので

また意味合いが違ってきます。

 どうも学校の一部の先生には、熱心なあまり

周辺事情をたくさん生徒に伝えたい(=覚えさせたい)という傾向があるような気がします。

 だから、あまり難しく考えず

「目の前の文章を楽しめばいい」

わたしなどはそう思います。

それが学習の原動力になり、その後細かい背景なども自然と頭に入ってくるようになるのです。

順序が大変重要だと思います。

勉強の面白さを軽く見てはいけないのです。

今後も皆さんのお役にたつ情報をアップしていきます。

 

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