【A弦が切れたら…】いつまで経っても「ジェネラリスト育成」を目指す学校教育の限界

良い臣民、優秀な企業戦士

 明治維新以来の我が国の学校教育は

誤解を恐れずに言えば、まず「良き臣民」を育成する教育から始まりました。

「末は博士か大臣か」という立身出世を目標とさせて

富国強兵の目標達成のためにより有益な人材を育成しようとしたのです。

 その後敗戦を経て、経済成長をして我が国を立て直すため

世界に負けない技術立国を担う技術者や優秀なビジネスマンの育成が、今度は新しいテーマになりました。

 その結果、世界に例を見ない高度経済成長を経て、我が国は再び先進国の中でも経済力の面では優位なポジションに立てるようになりました。

 その意味では国家、あるいは国際的な力の影響で策定された我が国の教育戦略は成功をしてきたと言ってもよいのかも知れません。

しかし、そこで命題として与えられ続けてきたことは

「広くバランスの良い能力」つまり「ジェネラリスト」としての能力です。

 考えてみるとすぐわかりますが、

仮に、数学の天才が我が国に生まれたとして

その人物にもし数学以外の能力が備わっていない場合には、彼は大学どころか高校へも希望する学校へ進学をすることができません。

 この点海外では、特定の分野に優れた人物を飛び級などで特別扱いするような制度がよく設けられています。

日本の場合、そういう制度は昔から「不公平だ」という意見の下で生まれにくい素地がありました。

要は全部できないと上には行けない仕組みです。

AIで代替できる能力

 大学入試がその良い例です。

私学の場合は別ですが、国公立大学の門をくぐるには

自分の専攻が工学であっても地理や古典の得点により不合格になることがあったりします。

そして大学に入れば

一般教養の勉強を一からやらなくては肝心の専攻科目の勉強にすら進めません。

きわめて効率が悪い仕組みだと感じます。

 全人的に有能な人材を育て上げようとするから、本当に高い能力を持った人物が、官僚になって国を動かせていないという可能性もあるかもしれません。

総合的に能力が高いということは確かに素晴らしい事ではありますが

とびぬけた発想やアイディアを持つ人間は

得てして能力に偏りがあることの方が多い傾向があります。

 入り口のふるいでそういう人材をすべてカットしている今の制度が本当に良いものなのかどうかは考えるべきかもしれません。

 ましてやAIが台頭をしてくる今後は

いわゆる受験エリートは不要になってしまいます。

我が国の大学入試や高校入試は、海外の受験と比べても著しく「暗記偏重型」です。

最近ようやく中高一貫校入試などでは「考える力」や「発想力」などを見る試験が増えてきていますが、まだまだ広がりを見せてはいません。

「暗記偏重型」の入試をトップで通過したとしても

AIには暗記でかなうわけはなく、事務処理能力が高いとしてもロボットに勝てるはずもありません。

今後重要なのは様々に計算され総合的に提出されたデータから

「どんな方向に行政を進めていくのか」というアイディアや判断力の高さです。

機械にはできないことを人材に要求しなければ、それは無駄な人材選びとなってしまいます。

自分にしかできないこと

 今後の世界では間違いなく

「自分にしかできないこと」をする能力を持った人材が必要とされるようになります。

そしてひょっとすると学校教育と言うもの自体の形も、これまでとは違ったものになるかもしれません。 

そんな時代には、ジェネラリストを目指して頑張るより

今ある自分の優秀さや得意分野に目を移して、そこを伸ばすという選択が良い選択になる可能性もあります。

 保護者の方はどうしても

「子どもには安全な人生を」という気持ちになりがちではありますが

良い大学、良い企業に進んでいくことが「安全な人生」ではなくなってくる可能性すらあるこの時代です。

 どんなことがお子さんの未来に必要なことなのかは、よくよく考えてみるべきです。

こんなことわざがあります。

 「A弦が切れたら残りの3本の弦で演奏する。これが人生である」フォスディック

未来は、子どもたちにとっても大人の私たちにとっても

おそらくこれまでとは大きく違ってくるでしょう。

 そんな中で重要なのは、このことわざの中にあるような「複線的」な人生観なのではないかと思います。

道は1本ではありません。むしろ何本もルートを準備しておくべきです。

 今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA