果報は寝て待て
「果報は寝て待て」ということわざがあります。
良い知らせは、あくせくしたりドキドキしていても、結果は変わるわけではなく仕方がないから、気楽な気持ちで待つのが良いという言葉です。
良い結果というのは、多くの場合努力をしたことの結果として生じますから
このことわざについては
多くの場合「一生懸命努力をしていることは当然の前提」のような説明がされます。
大筋では確かにそうでしょうが
たとえば物語「三年寝太郎」のように、ずっと寝ていてばかりで何もしなかった人が人々を救うというような話もありますね。
私が長く人生を生きてきて思うことは
「幸運は努力の結果でやってくることもあるし、それとは無関係に来ることもある」
という真実です。
逆に「幸運を得るには努力しかない」という考え方は
努力をしない人の価値は低いという考えにもつながります。
確かに努力は重要ですが、これでは生きていくのも大変になってしまいますね。
「三年寝太郎」の話も、寝ている間ずっと人を救うことを考えていたというような説明が入るバージョンもあるようですが、
むしろ楽しく何も考えず三年寝て気楽に過ごしていて、そんな人が他人を救ったという方が
ちょっとハッピーな感じがして「いいな」と思ったりします。
話がそれましたが「果報は寝て待て」は決して
「努力をしてあとは結果を待つ」という意味のことわざである
「人事を尽くして天命を待て」というような意味と同じではないと、私は思うのです。
「果報」の由来
「果報」とは良い知らせですが、これは仏教用語です。
「前世で行ったことのさまざまな報い」という意味で、
必ずしも良い知らせに限らず「前世での結果としての報い」という意味のようです。
ただ普通に「果報」と言う場合は、良い内容のものに限った使われ方をされます。
もし前世から私たちの存在が続いているとするならば
「果報」は目の前の努力なんていう短いものだけでなく
何万年も続く暮らしの中での行いの結果ということになります。
だから「寝て待つしかない」のです。
気持ちの重要さ
ここで一つ留意したいのは「果報を待つ」ときの心の持ちようです。
良い知らせを待つ気持ちと言うものは
希望に満ちたものです。
そして、そういう希望に満ちた心持ちというものは
おそらく良いものを引き寄せてくるのではないでしょうか。
そういう意味で言えば、このことわざの裏の意味は
「希望に満ちた気持ちでいるときっといいことがあるよ」
というものではないかと思います。
だから寝て待っていていいのです。
逆に「あんなに努力したんだから良い結果をもらって当然」とか
「努力に見合う良い結果がないと損」というような気持でいても
それは自分自身にとってあまり良いことにはならないだろうことは、容易に想像できます。
そんな損得勘定だけで世の中の物事を見ていると
良い事があってもそれを「幸せなこと」として受け取ることができなくなるからです。
結論として言えば
「楽しく毎日暮らしていれば、きっといいことが来る」
そういうありきたりですが、人生の真実のような考え方にたどりつく
それが「果報は寝て待て」ということわざだと思います。
皆さんもちょっとそんな視点で、このことわざを味わい直してみてはどうでしょうか。
今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。