エピメニデスのパラドックス
パラドックスというのは、正しそうな前提と正しそうな推論なのに、おかしな結論になってしまう事を言います。背理とも言います。
中でも「嘘つきのパラドックス」というのが超有名ですが、その代表的なものとして古代ギリシャの詩人で預言者のエピメニデス言葉を題材にした
「エピメニデスのパラドックス」が有名です。
今回はこれについて考えてみます。
エピメニデスは詩の中で、「全能の神ゼウスが不死身であること」についてクレタ人が否定していることを取り上げて
「クレタ人はみな嘘つき」という意味の言葉を残しました。
ところが、そのエピメニデス自身もクレタ人だったのです。
もちろんエピメニデスは論理学者ではないので、自身がこの矛盾に気づいていたのではないと思いますが(そういう趣旨ではないので矛盾するとも思っているはずもない)
この詩の内容について、論理学的にはパラドックスが生じていると言われています。
それが一般に言われる「嘘つきのパラドックス」の原型だと思われます。
嘘つきのパラドックス
具体的でわかりやすいので、このエピメニデスの詩の例で「嘘つきのパラドックス」について考えていきます。
まず仮に「クレタ人はみな嘘つき」というのが正しい内容を言っているとします。
クレタ人=嘘つきということになります。
(あくまでも論理の説明のための例ですので、クレタ人の方どうかご容赦ください)
ところが、この言葉を言っているエピメニデス自身がクレタ人です。
したがってそのまま考えると
エピメニデス=嘘つきということになります。
そうすると、エピデニデスが言った「クレタ人はみな嘘つき」という言葉についても
「クレタ人はみな嘘つき」=嘘ということになります。
とすると最初の「クレタ人はみな嘘つき」というのが正しい内容という前提と矛盾が生じてしまいますね。
論理の厳密性と表現の違い
確かにこのパラドックスは、一見「あれっ?」と感じてしまう内容のものになっていますが
これはおそらく、論理学が大好きな人が論理の面白さというものを紹介するために広めたものではないかと思います。
そもそも論理学と言っている割には、表現が厳密ではないからです。
正しく表現内容を記述すれば、こういうことになります。
エピメニデスは言った。「自分以外のクレタ人はみな嘘つきだ」
どうでしょうか。こうすれば全く問題はないですよね。
こんなおかしなことになる理由は、前提に「世の中の人の区分はクレタ人とそれ以外の切り分けしかありえない」という誤った二分法を使っているからなのです。
論理学教室の中でしか、そんな二分法は使いません。
こういう普通の言い方をすれば、エピメニデスは真実を述べ
言われている内容も、エピメニデスではないクレタ人のことを述べているのであるから、
真実であって、そういう限定をかけたクレタ人=嘘つきというのも正しい内容ということになります。
もちろん彼が書いた詩の中には「エピメニデス以外の」なんて野暮な言葉は入っていません。省略するに決まっているのです。
詩的表現について論理を持ち込んでいるあたりに、この「嘘つきのパラドックス」の面白さがあるのかもしれませんが
こういう題材を見て
本気で「どうしてかな?」と延々と悩んでしまう人も多い気がします。
そういう方は理詰め主体の思考をする方だと思います。
「話がそもそも変」「前提がおかしい」と思えるのが文系の人の発想だと思います。ちょっと考えれば話に無理があるのがわかりますよね。
ここはそういう発想が必要なのだと思います。
最近いろいろな詐欺やおかしな世の中の動きもあり、
それについて「どうもおかしいのだが理屈では正しそう」と思っている人が多いかもしれません。
でも話の前提のところから、嘘や故意に省略した内容(切り取り)にされている場合もあるので、なんとなく聞いていると騙されてしまいますよ。
どうかご注意を。
今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。