学習の中で記憶が占める割合
一般に受験のための学習では、とにかくたくさんのことを覚えていくということが基本になります。
思考力を試す問題ももちろんあります。
しかし誤解している人が多いのですが、思考力を試す問題の多くは記憶をベースにした問題であることがほとんどです。
定型的なパターンや切り口を覚えておけば、その応用で限定された範囲内で正しい思考を示すことができます。
いい例が数学の証明問題です。
「△ABCと△DEFが合同であることを証明せよ」という問題を解くためには
証明は与えられた命題について
仮定といくつかの数学上の定理を使って論を進め
結論を導くという手法を知らなくてはなりません。
そして数学上の定理については当然暗記が必要です。
三角形の合同条件などです。
生徒がこのような問題を解く時にオリジナルな発想は1つも要求されていません。
極端な話、ひな型を覚えて演習を繰り返せば、作業のように正解を出せます。
思考をするのは、たとえば「これはどの定理を使うのだろう」という判断くらいです。
実質的適合性や実質的妥当性も定型的にわかってしまう事項
思考力の問題については、何も中学校程度の学習だから記憶がベースにあるという訳ではありません。
たとえば司法試験の論文問題で
「この事例でAの利益とBの利益のどちらを法的に保護すべきか」という問題で結論を導くのに
●条文の文言ではこうなっているのでという文言解釈
●立法趣旨から考えた条文の趣旨の解釈
●背景にある利益状況からみた利益衡量
●信義則による実質的な考慮など
結論を出すためのアイテムが色々ありますが、
条文的な形式的解釈と実質的妥当性を図るための理論構成をするために
果たして「オリジナルな思考力が要求されるか」と言えば、否と言わざるを得ません。
「考える力」と言っても、ゼロから考えていくという場面などはありません。
「思考力」というのは、法律学を学んで基本的な法解釈のやり方や基礎知識あるいは判断の許される幅(法の射程)の範囲内で、ある程度定型的な判断をする力ということになります。
もしそうでなければ、裁判や諸種の行為への法適用が予測可能性の枠外のものになってしまうからです。
社会科学としての法律学が社会のために役に立たないのでは困りますね。
私が司法試験の受験を始めた頃、答案練習でかなりひどい得点を頂いたことがありますが、その時添削の方に
「あなたの答案は自由裁量部分が大きすぎます。立法論でなく解釈をしてください。作文ではありませんよ」と手痛く評価されたことを覚えています。
自由な発想はむしろマイナスになるという良い例です。
AIに任せられること
このように考えてくると、現在学習とされているもののほとんどの部分が「記憶」「暗記」によってできてしまうことであることに気が付きます。
最近AIの台頭が人類の未来にどう影響するのかということが、各方面で議論されていますが、
すでに現在でも、
何かを知りたいときには、ネット検索をすればほとんどわかってしまうという状況になりつつあります。
あなたが紫陽花(あじさい)について何も知らない人だったとしても、
誰かに「紫陽花のことを教えてください」と言われたら
ネットを検索すれば
紫陽花を長年研究してきた人と同じくらいの詳しさで、紫陽花のことを説明できるでしょう。
もちろん読解力や説明する力は必要ですが、
紫陽花について学校で長い時間その知識を教えてもらって暗記する必要はないと言うこともできます。
ましてやAIともなれば、さらにわかり易く私たちに知識を一瞬で示してくれることになるでしょう。読解力がなくてもいいように、また説明はすぐできるように情報を与えてくれることも容易に想像がつきます。
AIは人類に「知識を自分の頭脳に入れて保有している」ということを不要としてしまうのかもしれません。
こんなことを言うと、「植物学はもっと深い」という批判があるかも知れません。
確かに歴史を経て積み重ねられた学問の価値は、間違いなく高いものであると思います。人類の英知の賜物でしょう。
でもそれによって得られた知識は、人々の役に立つ情報以上のものではありません。
AIの中に蓄積されて世界中の人が瞬時に知ることができれば、むしろそれに越したことはありません。
考えても見てください。
大昔であればご飯を食べるために、稲の作り方からかまどの作り方火の使い方など、人が覚えていなくてはいけない知識はたくさんありました。
でも今はほとんどの人が、そんなことは知りません。炊飯器の電源を入れボタンを押すだけです。
知識を持っている必要がなくなったからです。
AIによって同様のことがまた起こるだけのことなのかも知れません。
学習は形を変えていく
そういうことを考えると、これからは学習というものの形は変わっていかざるを得ないと思います。
単なる知識を覚えるということはやがて少なくなってくるか、幼年期に頭脳の使い方の練習として記憶練習というような形で、覚えることがあるのみになってくるのかも知れません。
こう考えると、「人間にとって学習とは何か」という究極的なテーマがそこにあることに気が付きます。
学習をすることは、最初は人間が安全に暮らすために親から子へ情報を伝えるためのものでした。
それがやがて社会の発展のための情報の取得という意味のものに変わり、学校での学習や研究というものに形を変えてきました。
記憶がAIによって代替されるようになれば、今後学習は「考え方」や「独創性の発見への道筋」といったような、真にクリエイティブな部分のみに絞り込まれていくのではないかと思います。
イメージとしては、たとえば
禅宗で行われている「禅問答」や「ソクラテス式問答法」のように
質疑を通じて物事の本質を考えるというような学習の形になるのかも知れませんね。
AIはすでに台頭しはじめています。
学習の形もすぐに変わっていくと思いますが、
「学習=ほぼ暗記」という考え方は早期に捨てておいた方がいいかもしれません。
受験界もすこしずつ変わって来るはずです。
今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。