東大を出ても仕事がない
昨今の世界的な疾病騒動や政治の動きの中で
AIの台頭、不景気、業務の外注化による派遣の増加など
仕事がしたくても仕事自体がないという時代が、すでに到来し始めています。
一生懸命勉強を重ねて東大に入って卒業しても、その能力を適切に発揮できる安定した仕事が見つからないという時代になっています。
中央官庁の官僚にならないならば、東大に行くより一流私大であったりその都道府県の旧帝大系の大学などに行った方が就職は有利だと言われてきましたが
今やその官僚も深刻なパワハラや過酷な労働条件にさらされる職務であることもあり、天下りがあるとしても決して順風満帆な道ではなくなっているようです。
東大に合格するための頭脳はまさにAIが代替できるような能力である面が大きいので
今後なかなか大変なことになることは間違いないでしょう。
明治以降の我が国の教育の歴史
明治以来、我が国の教育は
「天皇の臣民の軍隊を育成するための教育」をスタートラインとして、高い頭脳水準を持ち欧米諸外国に勝る人材を確保することで、
「日本を一等国にすること」を目標として制度設計がされました。
「学問に秀でれば大臣になることも夢ではない」と言う、 およそヨーロッパ諸国では現実には難しかった、平等な競争社会が実現したかに見えました。
事実第二次大戦以前の日本ほど、バランスのとれた教育体制が整っていた国もないように思います。
確かに資産家の子弟は高い教育を受けることができましたが、そうでなくても門戸は開かれており
例えば野口英世のような貧農の出身でも、やる気と努力で世界に名を残す博士になることも可能だったのです。
そして教育の中にも、倫理や考え方の指導がバックボーンとしてしっかりした支柱があり
その事が結果として、第二次大戦に負けた後もしばらくの間、我が国が、経済の面で再び世界の諸外国とならぶ先進国になった大きな理由となっていたように思います。
敗戦後も教育の質は落ちてはいないが
敗戦によって、教育に関してはGHQから大きな変更が加えられました。
もちろん「民主主義教育を徹底して日本を改造する」という趣旨からの変更ですが
おそらくマッカーサーは
日本の教育を共産主義的な平等主義一色のものにすることなどは、全く考えていなかったように思います。
しかし色々な政治勢力の影響力行使などによって、その後我が国の教育が大きく変わってしまったことはご存じの通りです。
やはり敗戦国をそのままにしておくほど英米の背後にある国際金融資本の考えは甘くなかったのだと思います。
けれどもそんな中でも、教育のレベルそのものは高い水準を維持していたことは確かです。
元々の国民性である勤勉さとか知的な好奇心の高さなどが影響しているのかもしれません。
ただ、ここで注目すべき事があります。
それは明治以来一貫して、教育の目的となるのは
どうしても事務処理能力が高く、テキパキと仕事をこなす有能な人材を大量に創り出すという面に主眼が置かれてきたということです。
戦前は「よき軍人」「よき官吏」、戦後は「よきビジネスマン」「よき官僚や役人」
といったところが象徴的なイメージでしょうか。
「枠内での優秀さ」では新しい事態に対応が難しい
ところが昨今、科学技術の進歩のスピードが高まり
それに比例して社会の変化も、劇的で指数関数的な動きをするようになったため
与えられた枠内で思考をしていこうとすると
これまでなかったような新しい事態への対応ができない状況が、頻繁に出現するようになりました。
そんな時代においては、「前例主義」に基づく安定志向のやり方をしていては、あっという間に利益を失ったり危険にあったりするようになります。
しかし私たちは、これまで明治以降長く学校制度というものを
「与えられた問題を迅速的確に解決できる能力」というテーマで構築して来ているので
そこで受験を勝ち抜いてきたエリートは、どうしてもそのような人物中心となってしまいます。
しかしこれからの時代、いや今もそうですが
新しい事態ばかり急速に起こってくる時代で、リーダーとなる必要があるのは「枠内での優秀さ」というよりも、その枠自体を新たに創設していけるような人物です。
特にAIが発達して来れば、今学校で試験されるような理解力、暗気力、テーマを与えられての思考力、推理力などは、すべてAIで足りるようになります。
だとすると、リーダーが身につけなくてはいけない能力は、何もない状況から、最適解を導くために0から制度や仕組み自体を生み出していく、そういう創造力です。
まったく新しい世界を創っていく能力であり、
どちらかというと芸術や音楽などで発揮される独創性と近いものがある、そんな能力だと思われます。
教育制度の改革は100年遅れている
ではそんな未来に向けて、受験制度や学校制度は変わっていけるのでしょうか。
残念ながら当面は到底無理だと思います。
私の感覚では100年遅れているように感じます。
例えば、すぐに同時翻訳機が世界中で使われ、しかもそれがウェラブルな機器になれば
それこそ違和感なく、どこの国の人ともコミュニケーションが取れる時代になるのは確実です。
精度についてはともかく、すでにこういう機器は発売されています。
ところが文科省も国も皆、「これからは英語学習が変わる」「英語をもっと学習できるように」という方向に全力で向かっているように思います。
確かに現状では必要な面もあるのは確かですが
「じゃあ次はどうなる」ということを、きちんと考えているようには感じられません。
これまで「書く」ことを一生懸命覚えていたのを、これからは「聞く」「話す」「読む」といった面で学習が強化されるだけです。
しかし英知を結集して検討していけばきっと
「国をどうするか」「人々の未来をどうするか」それを超えて「人類の未来をどう切り拓くか」
そういったことを思考して世界を変えていけるような人材を育てるために
最適な学習や試験があるはずです。
そういうものについてこそ、今考えていくべきことではないでしょうか。
これは簡単にいえば、世界を大きく良い方向へ変革した織田信長のような発想力を持つ人物を、どうやったらリーダーにできるかという問題です。
織田信長は海外の文物に興味を持っていましたが、自分が英語を勉強したりしたわけではありません。
そういう考え方の根本の部分を試験できるような制度こそが、これから本当に求められてくることになるのだと思います。
今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。