中村天風の言葉
「もし、知識だけを磨いて人間が幸せになれるなら、学問を一生懸命勉強した人はみんな幸福になれそうなもんじゃないですか。そして、学問を勉強しない人はみんな不幸であるべきはずだが、そうじゃないでしょう」
これは中村天風の言葉です。
中村天風は実業家であるととも有名な思想家で、歴史上の偉人である東郷平八郎、原敬を始め、松下幸之助氏や稲森和夫氏など実業界の人物にも広く影響を与えたとされる人です。
彼の言葉には真実を語る力があるように感じます。
この言葉は、知識だけを磨く学問のみを一生懸命勉強しても、それが必ずしも幸福へのパスポートではないということを私たちに伝えてくれています。
修身と道徳
「徳育」とは人間としての心情や道徳的な意識を養うための教育であるとされ、 知育 ・ 体育 と並ぶものです。
学校での「道徳」の授業を思い浮かべる人も多いかと思いますが、様々な教育の場面で「徳育」は行われるべきものであるので、授業としての「道徳」はその一場面に過ぎません。
学校の授業としての推移を振り返ってみると、戦前は「修身」という形で学校教育の中で「道徳」と似た教育がされていましたが
戦争が近づくにつれてやや「軍事教練」のための指導という色合いが出てきた時期があったので
「修身」は「教育勅語」とともに軍国主義的なものとの解釈が生まれ、戦後長く批判の対象になってきました。
実際にはそういうものではなかったように感じていますが、
GHQのウォーギルトインフォメーションプログラム政策(日本人に戦争についての反省意識を強く持たせるための計画に基づく政策)による大きな方向性として、「日本の教育というものを一から作り直してしまおう」という趣旨からそのような方向へメディアによって世論が誘導されたと考えられます。
基本的には、社会に出て生活をしていく際のために心得ておく基本的な姿勢や常識を教えるもので、大人になって必要な事柄をきちんと教える内容のものです。
敗戦により「修身」はなくなり、戦後10年程経って教科外の特別活動(成績をつけず、教材も教科書検定のある教科書ではなく教師が裁量で指導を行うスタイル)として「道徳」の時間が復活しました。
その後、小学校では2018年(中学校は2019年)より教科として「道徳」授業が行われるようになり、現在に至ります。
いずれにしても「徳育」はこのような「修身」や「道徳」の授業はもちろん、その他の指導においても、学校ではずっと重要なものとして扱われて来たというのが建前だと思います。
ただ、実際には教育の場で「徳育」をあれこれ工夫して十分に行うには、学校の先生は忙し過ぎました。
昨今ようやく問題になり始めましたが、いわゆる教師の過重労働により、ずいぶん以前から先生にもゆとりがなくなっており
現場ではどうしても、成績や実績の結果偏重の方向へ進まざるを得なかったのではないかと思います。
高度経済成長と受験戦争の勝者たち
1950年代の高度経済成長期に、我が国はいわゆる受験戦争という呼び名の学歴偏重の競争の時期を迎えます。
私が学生生活を送ったのはその後半の時期になりますが、当時も受験戦争真っ只中という時期でした。
受験生の人数が少子化の現在とは比較できないほど多かったわけですから、当然競争も熾烈なものでした。
以前書いた「四合五落」(4時間睡眠なら合格、5時間なら不合格)というのも、この頃流行した言葉です。
ただ目標に邁進する受験生たちにとって、その先に具体的に何があるのかという事は重要ではない人も多かったように思います。
何せ経済成長は右肩上がりで、「日本の経済はこのまま成長し続けるに決まっている」とほとんどの人が考えていたからです。
そういう状況の下では、言い方は悪いですが「人を押しのけても自分が成功する」という意識が世に多くあったのも事実です。
本来将来のことを考えるのは、しっかりとした未来の展望があり目標があって、それを目指して進んでいくという形であるべきなのに、
「まず合格しなくては始まらない」という考え方が主流になるのは、過当競争下では当然と言えば当然だったのかも知れません。
そして長い年月が経ちました。
今我が国を動かしているのは、そういう受験戦争に勝った勝者である人たちです。
時を経てそんな人たちの様子を見ると、楽しそうに見える人もいますが、いかにも大変そうな人も少なくありません。
天風の言葉のように、彼らがみんな幸福そうにはとても見えません。
もちろんこれは、今の日本の社会構造自体にも問題があります。
スポーツやタレントなどが何か素晴らしい功績を残せば、マスメディアは手放しでそれを称えますが、政治家や官僚に対しては、常に批判をするスタンスで待ち構えています。
これはGHQの占領政策である3S政策とも関連がありますが、とにかく何事もメディアの意向をうかがわないと何かを断行することはできない時代になっています。
そんな中で自分の職務について誇りを持ち充実感を得るためには、しっかりした精神的な支柱となる考え方が必要ですが
残念ながら、集団の論理とポジショニングによってその多くが決まってしまう日本社会の上層では、そういう抽象的なものを重視することも難しいのかも知れません。
こういうことを目にしていると、当たり前のことではありますが
どうしたら幸福になれるかということは、本当に属人的で主観的な問題だという事を強く感じます。
徳育は「本人のためになる」という事を知る
親はとにかく子どもには苦労をさせたくなくて
「勉強しろ」「いい大学に行けばきっとうまくいく」「就職はこういうのが今はいい」
というようなことをアドバイスします。
そしてそのための学習について、より上手くいくようにバックアップを惜しみません。
しかし実は一番忘れてはいけないのが「徳育」です。
たとえば、こんな情景を想像してみてください。ドラマでよく見かけるシーンです。
新しい部長が転任して来ます。その部長はとにかく部下に厳しく、部下の手柄をすべて自分のものにしてしまいます。
当然部下から反発が起こります。部長の上司にそのような状況が報告されます。
部長は自分の名声が上がり出世できると思い込んでいましたが、部下の掌握ができていないという理由で異動を命じられてしまいます。
なぜ部長がそんなにも出世を急いだのかを調べてみたら、部長の亡き父親が、同期の策略で出世コースを外れてしまって大変な目にあったため
自分はそうならないように、とにかく早く出世をしたかったという事でした。
彼はいつも亡き父親の仏前で「俺が敵を取ってやる」と言っていたそうです。
ドラマなら、ここで話の分かる上役が出てきて「〇〇君。目が覚めたかね」というセリフを吐きその部長もようやく目を覚まして、部下のことを考える名上司に変身するというストーリーもありかも知れませんが
しかし現実は、そうはいかないでしょう。
仕事を「他人との競争」と思い込んでしまうのには、子どもの頃からの考え方に大きな原因があると思われるからです。
こんな極端な例ではなくても、アニメで登場してくる「がり勉」の生徒が、他人が困っていても全くそれに関心を持たず、勉強ばかりやっているような利己的な姿で描かれているのを見れば、「徳育」が重要というのは、ごく単純で当たり前の話だとわかるかと思います。
しかし私たち大人は、子どもの成功ということを「出世」や「社会的に高い地位に就くこと」「お金持ちになる事」というような面だけ考えてしまいがちです。
でも本当のところを考えてみれば、それだけでなく
「他人に役立つ人物」「他人から尊敬される人」「他人から愛される人」
こういうことも目標とさせた方が
実は、これらの物理的・経済的な目標をより早く達成させられるのだと思います。
というのは、社会というのは古来から現在に至るまで、人間と人間が構成しているものだからです。
形だけトップに立っても人を大切にする心がない人物は、必ずどこかで叩かれてしまう運命にあります。
それでも幸福な人もいるでしょうが、あなたの大切な子供が本当に幸福に人生を過ごせるようにしたいなら、天風の言葉の意味を、もう一度よく味わってみるのもいいかと思います。
今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。