【権利と義務とは?】為政者に便利な言葉、それは「努力義務」

権利と義務

 私たちは本来それぞれが個人として最高の人生を送る自由を持っています。

国家は論理的には自然人である私たちの後から作られたものです。

つまり国家は私たちの利益になるということ、近代では私たちの総意を反映しているということを根拠に私たちの権利を制限したり義務を課したりします。

 つまり人権制約をする者は今も昔も国家権力だったのです。最近は社会的権利を持つメディアやSNSプラットフォーマーなども人権制約をしているようですが、近時の新しい情報によれば、その主体はひょっとすると実質的に同一の人たちだったのではないかとも疑われています。

 権力者が国民の権利を侵害する事態が頻繁にあるため、歴史的な反省の上に立って、そういう権力者が人々に圧政をしかないように憲法が定立されて、権力者の行動を制限できるようになったのが、近代の立憲主義です。

 しかし残念ながら実際には、憲法の理念が十分に守られているとはいえません。

最近の世界情勢を見ていますと、世界の権力者たちはほぼ憲法のことは忘れ去っているかのようです。

人々の公衆衛生上の安全を確保するという名目で、十分な議論もないまま法律さえ作らずに、緊急事態の名のもとに世界中の人たちの人権は軽々と制約されています。暴力をもって国民を収監するような国も増えています。大変恐ろしいことです。

 自由に外出して、食事を食べ、歌い楽しむことは人間にとって固有の権利であり、簡単に制約が許されるものではありません。

 ネットの情報を十分に得ている人であれば、自主的な行動は別として、今回の世界状況が権力者が人々を自宅に長期間軟禁するほどの危険を持っているものではないことは理解できるかと思います。

 仮にもしそういう危険があったとしても、わが国の場合を含めて、議会において議論が尽くされていないことは間違いがないでしょう。立憲主義は今や十分に機能していないのが現実だと言われ始めています。

 他方、皆さんもすでにお気づきかと思いますが、義務はどんどん増えています。

劉邦の法三章

 漢の国を興した劉邦が、秦を制圧した際に民衆を安心させるために布告したのは、「法三章」であったと言われています。

「人を殺すものは死し、人を傷つける者及び盗む者は罪にあたる」と言うもので、3つの決まりのみであったため、法にがんじがらめで大変な目に遭っていた秦の人々は驚喜したと言われます。

 国家の基本はここにあると思います。できるだけ民衆の権利を侵害しない形で、対外的独立性を保ちながら、地域の民衆の統合体を作り上げていくのが本来国家を運営していくものの使命だと思います。

もちろんこれは臨時の措置でしたので漢の国に詳細な法がなかったかと言えば、そうではないのですが、この劉邦の思想と言うものは参考に値すると思います。

 私たちには日を経るごと、年を経るごとに重い税が課せられてきています。もちろん公のために適正に使われる租税の負担であれば喜んでそれに応じるべきでしょうが、どうも最近そうでもないらしい情報が表われてきています。

 何兆円を超える使途不明金が放置されていたり、社会保障に使うはずの税が法人税補填に使われたり、特定の団体へ公のお金が流れていたり、疑問に思えることも多くなりました。

 そろそろ国民が本気で考えていかないと、国の未来自体が危うくなってしまうかもしれません。

努力義務

 近年国や自治体からの発信でよく目にするようになった言葉として「努力義務」という言葉があります。

「結果を果たす」「義務」ではなく、「努力をする=そのように務める」「義務」という趣旨の言葉と受け取られ、普通に読む人は「ああ、義務まではいかないが努力しようということか」と受け取るかと思います。

 しかしこの言葉には大きな裏がある気がしてなりません。

真面目に受け取る国民、特に日本人のように大変な同調圧力にさらされている国民にとっては「努力しなさい」と言われれば真面目に「努力」をしてしまうのです。

そして実質上は「努力義務」を果たさない人間は、社会的に良い評価をされません。

とすれば、これは日本人の国民性をうまく使った実質的な「義務」の設定であると思います。

 そしてその反面、何かトラブルが起こった場合には、「それはあくまで努力義務として設定しただけだから、それで起こったことに国は責任を負えない。結果を果たす義務を強制してはいない」という責任免除が可能となるのです。

 最初この言葉を聞いたときにすぐこのことが頭に浮かびました。「官僚にはなかなかの策士がいるものだ」と思ったものです。

ただ「努力義務」と言っても実質的な社会状況や同調圧力の実態によっては「実質的に見て義務であり強制である」という判断ももちろん可能です。

だから裁判になれば結論はどうなるかはわかりませんね。

 しかし理解しておいてほしいのは、国家は昔から「虎狼」であると言われてきたということです。「虎狼」とは油断すると食べられてしまう猛獣と言うような意味です。

それを全面的に信頼して、判断を全て委ねていれば何もかも奪われてしまう可能性があるということです。

我が国は最近まで大変素晴らしい「親切な」「国民にやさしい」良い国でした。

しかし、今はどうかと言えば、私は疑問符を打たなくてはいけないかも知れないと思い始めています。

 


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