【日本語のヒミツ】なぜ英語では「オレ」も「おいら」も「僕」も、一人称は全部「 I 」なのか?

「三単現のs」

 英語を学習する人が、英文法用語で最初に直面する難関が「人称(にんしょう)」です。

中学の英語でいわゆる「三単現のs」を習うときに登場します。

一人称」は、自分自身やその集団を言うときの言葉で、「わたし」「わたしたち」

二人称」は相手やその集団を指す言葉で「あなた」「あなたたち」

三人称」はその会話に参加していないそれ以外の人や人たちを指す言葉です(例「彼ら」「彼女ら」「それら」など)

という事で、この中の「三人称」の場合で単数であり、かつ現在形の場合に動詞にsやesが付きます。

この「三単現のs」の理解ができない生徒は非常に多く、混乱しやすいところですが

それ以前にいきなり登場する「一人称・二人称・三人称」という言葉に皆が戸惑いがちです。

「三単現のs」については別に記事を上げていますので、これくらいにして

今回は「一人称」のお話です。

一人称

 一人称は自分自身(または自分たち)を表す表現ですが、英語では「I(アイ)」の一言のみで通用します。

これに疑問を持つ生徒は実に多く

「先生、『僕』って英語ではなんて言いますか?『私』と同じでいいんですか?」

「先生、『オレ』も『 I 』ですか?」というような質問がよくあります。

英語では一人称は「I(アイ)」ですべて通用します。これは欧米の言語ではほぼ共通のことであるようです。

フランス語なら「Je」ドイツ語なら「ich」という一人称単数を表す語は、用法の違いはあれども、英語と同様に場面によって別の言葉になるというようなことはありません。

 しかし日本語の場合、一人称単数の表現は実にたくさんのバリエーションがあります。

上記のような「僕」「オレ」の他にも「わし」「わらわ」「おいら」「わたくし」「わて」「うち」「おいどん」「おら」「朕」「拙者」などなど色々な言葉があります。

そしてそれは英語の訳す場合にはすべて「I」になることになります。

一人称が多い文化

 なぜこのような違いが生じたのでしょうか。

同様の事は古代の中国でもありましたが(漢文では「朕」「吾」「臣」など様々な一人称単数の語が見られます)

これらに共通の事は、日本や古代の中国では、その所属する集団における「自分の名乗り」が集団ごとで、一人称単数の表現として変わるということがあります。

つまりたとえば、親しい友人たちとのライングループであれば「『うち』な~そんなこと考えたこともない」という表現をしている人が

会社で取引先と会話する時には「とんでもございません。『わたくし』などまだまだですよ」と話していたりして

相手との関係性が変わる度に一人称単数の表現を変えるのがあたりまえになっているのが、日本の文化でもあるのです。

豊富な一人称の背景

 なぜこのような豊富な一人称を用いる文化がわが国に根差しているのかと言えば

まず考えられるのは「個人」という概念が希薄であったことが考えられます。

日本人は「世界に一人だけの自分」と言うような発想をすることが歴史的に少なかった民族だと言えます。

 それは、島国であるために、集団に所属しない者が、何かあっても「逃げていく場所がない」という漠然とした意識(物理的には可能でも、逃げても「海しかない」という心理的限界がそこにはあったはず)をルーツにした、集団への帰属欲求が高いという日本の特殊性が背景にあったのではないかと思われます。

それが現在まで受け継がれてきて育まれてきた強い同調圧力のある社会を生んでいるともいえますが

そんな社会の中では、自分が所属する集団あっての自分という感覚がやはり強かったのではないかと思われます。

 だから村の集会に出れば「おら」と言わないと「何だ、お高くとまって」と言われ

かといって公式なミーティングで「おら」と言えば「社会的な儀礼もわきまえてない田舎者」と言われたりするという、大変複雑な関係性を元にした状況があると言えるのです。

欧米の人であれば、「どこに行っても『私=I』は同じだろう」という意識があると思いますが、少なくとも多くの日本人は違うのではないかと思います。

 豊かな一人称単数の表現は、一方で確かに言語的な繊細さを表すものではありますが

他方で、このような日本の文化の背景に根付くものだといえるのではないかと思います。

日本の良さと問題点をしっかり見つめる

 日本の文化には大変優れている所が多くあります。

たとえば世界最古の長編小説として評価が高まっている源氏物語。

その源氏物語に主語があまり登場しないのは、関係性が文を読めばわかるからだと言われています。さまざまな敬語の表現から「これは誰が話しているのか」がわかるのです。

まだ世界が黎明期にあるこの時代に女流の作家である紫式部が、恋の話から権力闘争の話まで繊細な表現を織り交ぜて書いたこの文学は、まさに日本の誇りと言えるでしょう。

 しかその反面、狭い社会でお互いを知り尽くした関係の中だけでの価値観を前提として世の中を見るという感覚は、普遍的な価値というものに意識が及ばないという傾向にもつながります。

昨今のメディアの誘導による同調圧力を利用した騒動を見るに、この「他人との関係性」を重視しすぎる日本の文化というものには弱点がある気もします。

 何事も長短があるので、歴史や文学、そして語学を学んでいく際には、そういう事まで広く視野に入れて学んでいけると、実際に役に立つ学問と言うものができるのかもしれませんね。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA