キュロス2世
アケメネス朝ペルシャを興したキュロス2世という人物がいます。
アケメネス朝ペルシャは、世界史を学習されたことがある方はご存じかと思いますが、古代のオリエント諸国を統一した巨大な帝国です。
キュロス2世はペルシャ王国の第7代の王でしたが、古代エジプト以外の古代オリエント諸国(現在の中東地域)を統一してこのアケメネス朝ペルシャを建設した人物です。
その後この帝国は次々に周囲を征服してアレキサンドロス大王によって滅ぼされるまで繁栄したと言われています。
キュロス2世の名前はペルシャ王が称していた過去のアンシャン王に同名の王がいたため2世となっていて、私たちから見ると名門のおぼっちゃま的な名前にも聞こえますが、巨大な帝国を興した人物だけあって優秀で人望も厚かったようです。
キュロスは理想的な君主の一人として後世に伝えられています。
新バビロニアを征服した彼は、バビロン捕囚にあったユダヤ人をはじめ、強制的に移住をさせられていた諸民族を解放したと言われています。
そして彼は、征服された民族に対して寛大だったこともあり、ユダヤ人を解放させて帰国したことから、旧約聖書のイザヤ書では「主の望みを成就させる者」「主が油を注がれた人」として救世主(メシア)のように称えられているようです。
「自分自身を幸福だと思わない人は、決して幸福になれない」
このキュロス2世の残した格言とされているのが
「自分自身を幸福だと思わない人は、決して幸福になれない」という格言です。
どういうシチュエーションで語られた言葉かまではわかりませんが、言葉自体からポジティブなイメージが伝わってきます。
幸福については、よく「客観的な幸福というものは存在しない」という事が言われます。
どんなにその人が裕福で社会的地位も高く幸せそうに見えても、本人が辛い毎日を送っているという事はよくあります。
周りからのイメージで「客観的に」「幸せそう」と見えても、それは決して本人自身の幸せにはなりません。
幸福は100%主観的なものです。このキュロスの言葉はそれを見事に言い当てている言葉だと言えます。
主観的な幸福しかないのであれば、自分自身が幸福だと思わない人は、一生幸せにはなれないというのは、考えてみれば至極当然の事です。
たとえば年収が150万円の人が努力して200万円の年収になったとします。
彼が「ああ自分もよく頑張った。周りの人にも感謝しかないな。ああ幸せだ」と思えば、彼は幸福です。仮に周囲の人が何と言っても幸福なのです。
「自分自身を幸福だと思う人は必ず幸福になっている」のです。
たとえば年収が1億5000万円の人が2億円の年収になったとします。
誰の目から見てもその人は「幸せそう」に見えます。
しかし「こんなもので満足できるか。A氏の年収は10億だぞ。奴と比べてオレの能力が劣っているはずはない。なんていう不幸だ」と思えば、かれは不幸せです。
そして彼が自分が幸福だと思う瞬間が来ないうちは、収入が10億になろうと100億になろうと果てしなく不幸は続きます。
この世界はすべて「評価」と「視点」と言うものでできています。
自分が物事をどんな視点でどう評価するかにより、世界がバラ色の世界になるか灰色の世界になるかが決まります。
キュロスの言葉の背景にはそういう深い意味が隠されているように私は思います。
さすがに多くの人々を魅了して救世主と呼ばれた人物の言葉は実に深いですね。