【ミスを許せない社会】「弘法にも筆の誤り」に隠された深い意味は?

ミスを許せない社会

 最近の世の中の傾向として、全般に他人の間違いに対して非常に厳しいという事があるかも知れません。

SNSが発達してきたせいか、ちょっと人と違ったことをやっている人について、何か他人に迷惑をかけてしまうと、多くの人が束になってその人の誤りについて集中攻撃するという現象をよく見かけるようになりました。

 確かに人に迷惑をかける事は良くない行動ですが、それに対する周囲の目や行動がいささかオーバーアクションになっているのは気になるところです。

これはマスメディアが長い時間をかけて、私たち国民に同質で特定の価値観を植え付けてきたことにも関係があるかも知れません。

メディアもSNSもなかった時代にも、何か問題行動をした人は周りから批判されて、田舎でああれば村八分になったりして、確かにその意味では今と変わらない対応がありました。

でも多くの場合「まあまあ、そんなに目くじらを立てずに」と言うようなことを言う長老とかがいたりして、最終的にはそこで救われて社会に戻っていくというような地域の受け皿のような仕組みがあったように思います。

 昔の人の方が、そういう点では知恵があったのだと思います。

イエスの言葉で「あなた方の中で罪のない人が、最初に石を投げなさい」と言うのがありますが、他人に寛大ではない社会というものは、人々が生きにくい社会になってしまうということは間違いないでしょう。

弘法にも筆の誤り

 歴史上の有名な人物で空海という人がいますが、この人を弘法大師とも呼びます。

真言宗の開祖として名高い人ですが、書道の達人としても名を残しています。そして平安時代に嵯峨天皇(さがてんのう)、橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに「三筆(さんぴつ)」と称されていました。 そんな弘法大師もある時、書を書く際に漢字に点をつけ忘れてしまいます。

それで「どんなに名人でその道に優れていてもミスをすることはある」という意味で

「弘法にも筆の誤り」ということわざが生まれました。

ただこの時の弘法大師は間違いに気づくと、何と筆を「エイッ」と投げつけて点を書いてしまったとされています。

「ミスをしてもしっかりとカバーをすればそれは失敗にはならない]ということをよく知っていたのでしょう。

むしろミスに気付いてからの行動こそ大切なのかもしれません。

 だからこのことわざには、「ミスの修正も名人なら上手にできるのがすごい」という意味も、隠された意味としてあるともいわれています。

間違えたらやり直せばいいのです。

それがかえってプラスを生むことなど実際の世の中にはいっぱいあります。

同じ意味の言葉が多いことわざ

この「弘法にも筆の誤り」ということわざですが、実は同じ意味のことわざが多くあります。

代表的なものとして「猿も木から落ちる」と「河童の川流れ」があります。

「猿も木から落ちる」については、

猿は木に登るのが得意というよりも日常行動ですが、そんな猿も木から落ちることだってあるということで、「得意であってもミスすることがある」という意味を表します。

同様に「河童の川流れ」も、

河童は川を泳ぐのが仕事のようなものですが、そんな河童も溺れることがあるいうことで、同じ意味を表します。

 こんなに同じ意味の言葉が多いのは

「ミスをするというのは誰だって普通ある」ということを、示しているのではないかと思います。そんなことから、たくさんのことわざが生まれたのでしょう。

 でも弘法大師の話のように、肝心なのはそこからです。

ミスをしっかりカバーすれば、それは失敗ではなく経験であったり、場合によっては自分の評価を上げる機会にもなります。

ミスをしてうなだれたり、隠したりするのではなく、ミスを生かして次のステップに進みたいものですね。

今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。

 

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