何かを決定する方法
およそ人が複数いて、その中で何かを決めなくてはならないとき
意思決定をする方法には、実はさまざまな方法があります。
①一人の意思をもって集団の意思とする方法
②多数決による方法
③全員一致を要求する方法
④特別多数により判断する方法(特別多数には3分の2とか様々な基準があります)
⑤代表者を選びその決議をもって判断する方法(この場合にはその判断法にさらに上記の方法があります)
他にもあるかと思いますが、代表的なのはこのあたりでしょうか。
①は、平穏なものとしてはプラトンの提唱した哲人政治のようなものもありますが
独裁による意思決定が代表的でしょう。
トップダウンの傾向のある会社の社長の決断などもこれにあたります。
③で有名なのは、内閣の会議である閣議で原則全員一致とされています。
最近は何もかも「閣議で決議した」で国の色んなことが決まってしまって問題視されていますが、総理大臣が「こう決めたいがどうだね」なんて言えば、結構簡単に全員一致になったりするんでしょうか。
付和雷同的な全員一致も少し困りものです。
④は会社法上の規定上株主総会の決議などで、決議内容によってこういう高い基準を設けているものがよくあります。
⑤はいわゆる間接民主制です。
そしてこれらの中でおそらく最もポピュラーであり、色々な所で用いられている意思決定方法は
もちろん②の多数決ということになるかと思います。
何かを決められない場合の最終手段に過ぎない
では多数決はそんなに優れた方式なのでしょうか。
よく言われることに、多数決で決める場合にも、「少数意見を尊重して議論する」という事が言われますが、これはどういうことでしょうか。
その答えは簡単です。「多数決は最善の選択ではない」からです。
多数決と言うのは、意見が分かれて1つに決められない事が起こった場合に、決議ができないことを避けるための次善の策に過ぎません。
たとえば、A案 B案 C案が出ていて、A案が多数で決議されても、それはA案が絶対的に最良の策であることを意味しません。
あくまでその会議の中で相対的に支持者が多かっただけなのです。
会社の経営策を想定してもらえば良くわかりますが、会社にとってひょっとしたらC案がベストかもしれませんが、そんな時にも、きわめて保守的な経営陣が皆A案に賛同すれば、A案が会社方針になります。
その結果会社が倒産することもあるのです。
またさらにA~C案のすべてが駄目な案であることも多いでしょう。多数決は真実を決めるようなものではないのです。
経営の世界では有名な言葉で「少数決」と言うものがあります。
経営というものは100人のうち90人が考え付くようなものでは、対抗する競合各社に勝つことはできず、誰も考えないことをやって初めて勝てるのであるから、
多数決ではなく「少数決」の方が、正しい結論になる可能性は高いということが根拠になっている考え方です。
これはかなり的を得ている考えだと思います。
ただし少数のその意見があまりにレベルの低いものである場合には、逆に大変なことになるのは間違いがありません。
多数決や間接民主制などの方式を用いている、現在の民主政治の良い面を考えるときに「三人寄れば文殊の知恵(さんにんよればもんじゅのちえ)」という言葉が頭に浮かびます。
「平凡な人でも集まって考えれば良い案が出るものだ」ということわざですが、
民衆政治においてこういうやり方が取られているのには、誰か特定の人だけの発想は、普通はあまり普遍性が無かったり偏りがあったりするので、その危険を避けるべきだという背景があります。
少数決はまさにその反対を行くものですから、上手く行く場合は抜群の結果を出しますが、愚策の場合は大変に悪い結果も起こりうるのです。
多数決が民主主義と思ったら大間違い
民主主義というと「多数決」と思われている方が非常に多いと思いますが、実は民主主義=多数決ではありません。
意思決定の手段としてベストのものがないから、やむなく多数決を取っているだけです。
そして多数決は多く誤りを生むため、歴史的に多数派の間違いを正すための政治的な制度が多く作られてきました。
中世では絶対権力をもつ王や強大な力を持つ封建君主が、専断的な決定をして民衆を苦しめることがありましたが、
現代では多数派の横暴が、専断的な決定で個人の人権を侵害する危険があるのです。
憲法が法の支配の下、個人の尊厳を最大限に尊重し人権を保障しているのは、実はこういう民主制による弊害を修正するための仕組みなのです。
政府のような為政者や、現代ではマスメディアのような社会的権力者が、集団の論理で「皆がそういう意見だから」と言うことで、人権を制約していくことは、この憲法が危惧している「多数決の弊害」そのものであるといえるでしょう。
以前も書きましたが、悪名高いナチスというのは、世界で最も民主的と言われたワイマール憲法下で、民衆の圧倒的支持を得て登場しました。
その結果どういうことになったのかは、皆さんよくご存じだと思います。
彼らは常に多数決の勝者だったのです。
メディアが多数派を作り権力を行使する
当時のドイツでも、ラジオや新聞、ニュース映画で共産党の反乱をメディアが伝えて
民衆に恐怖心を植え付け、その結果、ヒトラーが率いるナチス政権が圧倒的な支持を得るようになりました。
昨今のわが国の状況を見ると、メディアが科学的な根拠の薄い考えを広めて恐怖心をあおり、政府もそれに同調する形で、多数派が形成されて
「目的のためには仕方がない」という感覚の、およそ法の支配の下運営されている民主国家とは思えないような、法規範の制定や法を逸脱した行政行為が平然と行われています。
その流れに乗って、上述したような国会の議決を通さず閣議だけで重要な事を次々に決めてしまうという最近の政府の動きへと繋がりつつあるようです。
そしていつのまにか私たちは、そういう権力によって次第に身動きができないようになりつつあるようにも感じられます。
そんな中で、立ち止まって考えなくてはいけないのは、「多数意見が本当に正しい事を言っているのか」「きちんとした科学的根拠に基づく決定がなされているのか」ということだと思います。
少なくとも多数派の意見を鵜呑みにする前に、自分の目で見て調べて、確認してみることは大切です。
意思決定の方式は色々ありますが、どれも完全なものではありません。かといってAIが決めてしまえばいいかと言えばそうでもありません。
意外に気づいていない人が多いのですが、AIがディープラーニングにより進化するものだとしても、そのそもそものデータベースに特有の思考を植え付けることなどは簡単にできるのです。後ろには常に人間がいます。
誰かが自分たちの都合の良いやり方を、AIを通して世界に強制していく危険が否定できないことなどは、昨今のプラットフォーム企業が行いつつある実質的な統制活動の傾向を見れば明らかなことなのです。
どんな意思決定方式でも、①より内容がベストなものであること ②決定の適用を受ける成員がより了解しやすいものであることの2面が満たされることが必要です。
そういう意味では、比較すると多数決が「いちばんマシ」というだけなのですから、どんな方式でも、決定を誰かに任せて全て委ねてはしまわずに、よく考えてみるという事が重要なのだと思います。
少なくとも①を決めるのは決定権を持った一部の人ではいけませんし、⓶についても誰か声の大きな人(メディア)がそれを判断するのではいけません。
私たち自身が自らそれを決めていくということが、独裁や全体主義国家へ向かう不幸な道を防止するためには大切だと思います。