【物事のとらえ方】幸せになるために一番必要な力、それは「解釈力」

それは「良い出来事」それとも「悪い出来事」?

 私たちは毎日の暮らしを通して、様々な出来事に遭遇します。

学校、家庭、仕事、それぞれの立場で色んな事が起こります。

そして人によってはその出来事でショックを受けたり、寝込んでしまったりします。

かと思うと、「大変だろうな」と思っていたら意外に本人は元気であったというような事も、時に目にします。

 これは人それぞれ、物事への受け止め方やとらえ方に大きな違いがあるからです。

たとえば、受験で失敗してしまったという出来事は、本人や周りにとって大変衝撃的な出来事です。ショックを受けたり感情的に落ち込んでしまわない人はおそらくいないでしょう。

 でも後でその事実をどうとらえるかについては、人によって大きく異なります。

「オレは試験にも落ちたダメな人間だ」「だから何をやってもうまく行かない」そう考える人もいれば、

「試験はダメだったけど合格した学校が自分を迎えてくれる。そこで頑張ろう」「かえって難関じゃない進路先なら、自分でもこれから上位を狙えるかもしれない」そう考える人もいます。

一旦負の感情と言うものが湧いてしまっても、人間の優れている所は、その後でその事の「意味を解釈する」という思考過程が必ずあるということです。

ネコが他のネコに攻撃されたとき、攻撃されたネコは無意識に自己防衛をして「ヒッャーキィャーッ」と言うような奇声を発して反応しますが、その後で「あれはあいつが仲間意識でじゃれて来たのだ、うれしい事だ」などと意味を解釈するなんてことは、おそらくないでしょう。

その意味で「解釈力」は人間に特有の優れた能力なのだと思います。

幸せになりたいですか?

 ここで皆さんに質問ですが、皆さんの人生の目標は何でしょうか?

「目指す分野でトップの地位に就く」「大金持ちになる」「誰からも尊敬される人物になる」「静かで平和な人生を送る」「愛情に満ちた人生を送る」等など色々な具体的な目標があると思います。

では、その目標は何のために目指している目標なのでしょうか?

ここでもう一つ深く考えてみると、どれもこれも自分が「気分良くなりたい」「うれしい気持ちになりたい」というようなところにあることに気づきます。

つまり大きく言えば、すべては「幸せになりたい」「幸せな人生を送りたい」という所にたいていは帰着することだということです。もちろん例外だってあるかも知れませんが・・・

しかし、もし人生のテーマがこの「幸せになる」という事にあるとして、必ずそれを阻むものがあることを皆さんはご存じでしょうか?

あなたが、目指す分野でトップの地位に就いても、大金持ちになっても、誰からも尊敬される人物になっても、客観的に静かで平和な人生を送っても、人の目から見れば愛情に囲まれた人生を送っていても、これに阻まれて幸せになれない事があるのです。

 それは、あなた自身の「解釈」による妨害です。

どんなに客観的に恵まれた成功を収めていたとしても、自分がそれを「素晴らしいこと」「よい事」だと真に感じていなければ、主観的に幸せを感じる事ができません。

「トップにはなったが、毎日誰かに蹴落とされないか心配で夜も眠れない」

「お金を誰かに取られないか、そればかり心配している」

「尊敬されていたって大変なことばかり、もっと利益を得たい」

「静かで平和な人生なんて実際はつまらなかった。なぜもっと冒険しなかったのだろう」

「愛情に囲まれたように見れるが、きっとみんなはオレの財産目当てで優しくしてくれるだけだ。なんて孤独なんだ」

そんな風に自分が感じていれば、決して幸せにはなれないでしょう。

こう考えると、幸せになるために一番大切な事は「解釈力」だという事に気が付きます。

解釈力があれば「成功するかどうか」は幸せとは無関係

 逆に「解釈力」があれば、未来の大成功や出世を待たずして幸せはすぐに手に入ります。

「成功するかどうか」「現にうまく行っているかどうか」は無関係です。

「ああ、今日もご飯が美味しい。健康で毎日こんな美味しいものを食べられてなんて幸せな人生なんだろう」

「ああ、空が青く澄み渡っているなあ。花も咲き乱れていてこの世界は何て美しいんだろう」

「ああ、今日も山口課長がプンプン怒っているな。課長がああして怒ってくれるから、オレもミスをしないように気を付けていられる。有難いことだ」なんて具合です。

ただ、実際にこういう思考をするのは大変難しい事です。

それは、人間には解釈力の他に厄介な「感情」というものがあるからです。

しかし、お気づきの方も多いかと思いますが、「感情」は割と長続きしないアイテムです。特に日本人はお人よしなのか、いつまでも人を憎んだり恨んだりできない人が多いようです。

だとすれば上に書いたように、一旦は感情的になっても、その後落ち着いて物事を前向きに解釈する習慣を付ければよいのだと思います。

世の中に起こる出来事で「絶対的な悪」「絶対的な善」などというものはほぼ存在しないように思います。

 たとえばもっとも深刻な事態である人の死でさえも、見方を変えることでその辛さを乗り越えることが人類には可能です。

昔仇討ちという習慣がわが国にはありましたが、実際には途中で馬鹿らしくなってやめてしまったという人も多かったようです。これは、仕返しをするためだけの毎日を送る事よりも、その出来事を改めて冷静に前向きに組み直して、これからの自分の人生を送った方がよほど建設的だと、彼らが思ったからではないでしょうか。

怒りや悲しみは自然に沸くものですが、それを延々と味わい続けて生きるには人間は前向き過ぎな生き物なのではないかと思います。

 このように考えてみると、「解釈力」を若いうちから身に着けておくという事は、どんな状況に置かれたとしても、そこでその人が人生を幸せに生きていくために非常に重要なことではないかと思われます。

我が国の教育においては、とにかく「悪い事を掘り下げて反省する」という方向性が強く、「物事のプラスの面を探して建設的に先を考える」という面が弱いという事が言えると思います。

これからの人材には、もちろん危機管理能力は重要ですが、良い意味での「解釈力」を身に着けてもらって、ポジティブな方向へ未来を導いていってほしいと思います。

「こんなこと企画しよう」

「よしワクワクするね」

「うまく行かなかったけど楽しかったね!何て幸せ!」

そんな感じでいいんじゃないですか。

「しかめっ面をしていたり、ため息をついていれば幸せが逃げる」なんていうのは、ずっと昔から言われていますが、それこそが実は最も重要な人生の真実なのかもしれませんね。

 

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