過激な言葉
私たちが何事かをする場合に、どうしてもメンタル的にそれを乗り越えられない気がすることがあります。
そもそも人間には、恒常性(ホメオスタシス)というものがあり、生体が外界の環境の変化を受けても、生理状態を常に一定範囲内に調整する機能が備わっています。
そしてこれは、何も肉体的な生体恒常性の話にとどまらず、メンタル面においても日常の安定を求める志向というのは間違いなくあると言えます。
だから何か高い目標を設定しても、いきなり猛烈な努力をするということはなかなかできません。「猫のようにだらだらしていても何事も上手くいくという」そんなことを心の中では望んでいたりする面もあります。
このことを知っている人類は昔から過激な言葉で、人々の気持ちを鼓舞してきました。
たとえば「全身全霊」とか「粉骨砕身」というような言葉は、そういう所から出てきているのだと思います。
*「全身全霊」全ての体力と精神力を使って 「粉骨砕身」力の限り努力すること
それらの中でも今回は、最も過激であると思われる言葉である「臥薪嘗胆」についてお話してみたいと思います。
臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
有名な「臥薪嘗胆」の故事は、中国の呉越の戦いが行われた春秋戦国時代にさかのぼります。
当時呉と越はともに春秋時代の後期に、新興国として力をつけてきた国でライバル関係にありました。
「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」という言葉があります。これは「犬猿の仲の間柄にある者も、利害が一致すれば協力することもある」という意味の熟語ですが
この言葉を見てもわかるように、「呉越」と言えば敵同士で犬猿の仲という状況が当然の事として前提とされていました。互いに国力を挙げて熾烈な応酬が繰り広げられていたのです。
「臥薪嘗胆」はそんな呉と越の戦いの中で、お互いに相手を倒すために、できない我慢をして苦難に耐えて目的を果たしたという話に由来するもので、
「目的を実現するために、苦難や苦労に耐えてその時期を待つこと」を言います。
臥薪(がしん)
「臥薪」は薪(たぎぎ)の上に寝るという意味です。
戦で父を失った呉王の夫差(ふさ)は、兵を鍛えるとともに自分は薪の上に寝て復讐の念を毎日新たにすることを誓います。
想像してもらえばわかりますが、薪の上で寝るというなんてことは実際には痛い上に傷もできてしまい到底我慢ができるようなことではありません。
それを我慢して、そのつらさを自分の復讐の想いを忘れないために生かしたということです。
そしてその結果、呉は越に勝利します。会稽山の戦いと言われる合戦で劇的な勝利を収めます。
「臥薪の日々」の成果を得られたと言えます。
嘗胆(しょうたん)
「嘗胆」とは肝(きも)を嘗める(なめる)という意味です。
今度は逆に敗れた越の勾践が苦難の日々を送ることになります。
勾践は呉の厩係(馬小屋の番人)にまで身を落として、越の再起を図ろうとします。
そして越には、范蠡(はんれい)という名宰相がおり、どんな時でも越の未来を考えて策を施していました。簡単には越は滅亡をしなかったのです。
勾践は敗北のつらさを忘れないように、動物の肝を嘗めて復活の日を待ち望むのです。
私は肝を嘗めたことはありませんが、大変な苦さをもっているようです。
この肝については熊の肝とも豚の肝とも言われているようですが、その苦さを味わうことでつらさを再起できる日まで決して忘れないようにしたのでしょう。
そして最終的には越は呉を再び破り「会稽の恥」(会稽山の戦いで敗れたことについての恥)をすすぐことになるのです。
ここに22年間にも及ぶ呉越の復讐合戦が終わることになります。
日露戦争の臥薪嘗胆
臥薪嘗胆はこのような話によるものなのですが
我が国においては日露戦争の頃に、この言葉が国民を奮起させるスローガンとして用いられたことで有名です。
日清戦争に勝利した日本の進出を良く思わないフランス、ロシア、ドイツなどの列強が日本に対して三国干渉をしてきましたが、それに反発して、日本人が我慢をして
「いつかそれらの国に一泡吹かせてやる」
そんな気持ちになるように流されたスローガンであり、結果として日露戦争に突入していくための世論を高めることになった言葉だと言えます。
無理な我慢をしてまで復讐をする意味
臥薪嘗胆は、目標達成に向けての度を越した努力であるともいえますが、度を越した我慢は必ず悪い影響を生じます。
極端なことをしてまでそうしようとするのには、「復讐心」がその背景にありますが、そういう気持ちだけからスタートした行為は、復讐が達成されれば、何もかもが白紙になってしまいます。
そして、逆に復讐が達成されなければ、むなしくなるだけであって、どちらにしても、最終的にはあまり良い結果に結びつくものでもありません。
もちろん、呉越の争っている時代や、帝国主義によって戦わなければ侵略された時代においては、「臥薪嘗胆」で勝利することも必要だった面もあったのでしょう。
しかし、ひょっとすると「臥薪嘗胆」のスローガンは、最近のわが国でもみられるような、どうしても戦争で利益を得たいと考える一部の人が、メディアを使って国民をたきつけるための魅力的な台詞だったのかも知れません。
確かに、日露戦争によって我が国が得たものは大きかったと思いますが、多くの人々が犠牲になったのは間違いない事実です。
呉越の戦いや日露戦争においても、このような激しい言葉で人々が鼓舞されて戦いに駆り出され、戦いそして戦いを起こした人はその言葉によって勝利を得ましたが、駆り出された人々は愛する人や家族、財産を失ってしまったからです。
だからこの言葉は、これからの時代において、むしろ「猛烈な憎しみや怒りで何かを推し進めることを疑問に感じる」そんな方向性で受け取った方がよい言葉ではないかと思います。
結果を生むための正しい努力と言うものは、合理的な理性の働きにより行う事ができるものです。怒りや憎しみはその「合理性の目」を曇らせることが多く、逆に失敗も生み出しやすく、何よりも、結果が出てきたときの達成感の面で大きな違いが出てくる気がします。
願わくば努力は、次第に明るい太陽の光がさしてくるような、そんな前向きで輝かしいものであってほしいです。
今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。