劉邦の「法三章」 漢の国を創設した劉邦(項羽と天下を争った相手)が秦を破った際に制定した全部で3か条だけの法。その内容は「人を殺した者を死刑とする」「人を傷つけた者を罰する」「何かを盗んだ者を罰する」というわずか3か条のみだった。それまでは、秦の始皇帝が大変複雑で厳しい法で民を支配していたため、劉邦はこの法三章によって当時の民衆の絶大な支持を得ることになった。*(漢が天下を取った後は「九章律」という法の名で整備された)
早すぎた始皇帝のアイデア
万里の長城を本格的に築いたことで有名な秦の始皇帝(名は政‐せい)は、紀元前221年歴史上初めて中国を統一して最初の皇帝となります。
彼は時代に先駆けて中央集権国家を作ろうと考え、官僚の組織によって中国全土を支配しようとします。
封建制で諸国が割拠して争っていたそのころの中国においては、非常に画期的な試みでしたが、あまりにも斬新すぎるアイデアでした。
彼は、王や貴族を氏神のように尊敬する民が、それと同時に王や貴族から保護を受けるという形で相互依存形式で支配が成立していた、これまでの中国の統治制度を一変させてしまいます。
法というものをもって刑罰・労役・徴収を強制するという制度を導入したのです。
現代の中国を見てもわかりますが、巨大な中国全土を掌握して国家運営をするためには強い公権力がやはり必要だったのでしょう。
民衆の気持ちがよくわかっていた劉邦
巨大な宮殿や長城、皇帝専用道路を造設するための大規模な土木工事に、民が労役を強制され、複雑で微細に人民を拘束する法の適用が冷厳に行われました。
民衆の反感が生じてくるのは至極当然のことでした。 秦を倒した劉邦は、このことにとても敏感でした。
自分自身がもともとは一庶民で亭長という地方の下級役人であったため、法の適用による苦難をいやというほど味わっていたからです。劉邦は秦の法をすべて廃してしまいます。
そして、わずか3か条のみの「法三章」を定めて新たに漢を興しました。
分かりやすく書くと
1 人を殺すな
2 人を傷つけるな
3 ものを盗むな
という3つだけの律(刑法)です。
その後敵対する楚の項羽を破り、天下を治めるに至るのですが、このような考え方が、民衆を味方にしたことは間違いありません。
劉邦が興した漢の国は前漢と後漢を合わせると約400年間にわたり繁栄をつづけたのです。
国の親心は余計なお節介
秦の国が法治主義を採用したのは中央集権国家としてあの広大な中国を収めるためには、どうしたって人治主義ではうまくいかないから、厳格な決まりを作って民衆に公平な社会を作り、それによって自分たちの国家が円滑に運営できるはずという理想があったのだと思います。
一般的に言って民衆の権利を制限する法規範を定立するときに、規範を作る側はできるだけ完全なものを作り、法を潜脱して適用を逃れる者が出ないようにと考えます。微に入り細を穿ち、きめ細かな準備をと当人たちは考えます。
さらに現代のように行政権が肥大化して行政が国民の人権を積極的にバックアップするような時代になると、なおさら官僚たちは「親心」のつもりで、「こんなときはこう」「また、あんなときはこう」と細かくチェックを入れて法律を作っていきます。
さらに政治的な思惑がそれに入り込みます。自分たちの権益が害されないようにと考える者たちが色々な手で、条文に有利な条項を入れてもらえるようにしていきます。
結果として、見るも無残で不自然な、国民にとっては馬鹿馬鹿しい手間ばかり増える複雑怪奇な法律や制度ができあがります。
しかし、作成した当人たちと、政治的な権益を有する人たちは、きめ細かく公平に配慮した良い法律ができたと思うのでしょう。 法律はこうして、適用される人が読んでも何が何だかわからないような複雑なものばかりになっていってしまいます。
わずか15年で秦は滅ぶ
おそらく秦の時代も当初の志は良かったものの、規定を細かくしたばかりに民衆の権利を制限しすぎることになり、さらには現場の運用が峻烈であったために全国の庶民の反感を受けるものになっていったのでしょう。
相互に監視し合って密告を奨励するというような法もあったようです。
はるか昔のこんな時代に「なぜそんなおせっかいを国が勝手にやるのだろう」と誰もが思ったことでしょう。
そもそも法律や政令・法に基づく行政行為は、基本的には民衆を守るために制定され、運用されるべきものですが 為政者が「親心」なのか、独りよがりな大義名分を立ててよく議論することもなく、それを達成するために行われることになれば、民衆の心はやがて離れていくものです。
近年の我が国の様子にも同じような流れのものがあります。政治情勢や行政法という以前の行政法規による恣意的な裁量運用の数々を見ていると、民衆の心をわざと逆なでするために為政がされていると言いたくなるようなこともありますね。
おそらく政治には近く大きく民意に基づいて軌道修正が加えられるのではないでしょうか?
いずれにしても為政者が民衆にかける制限は軽ければ軽いほど民衆の心をひきつけることは確かです。
為政者こそ、民衆を恐れ「放っておけば大変なことになる」という思考からいったん離れることが大切なのです。
劉邦の行った「法三章」の威力は、その絶妙のタイミングゆえに劉邦人気を爆発的に高めたことは間違いがありません。
そして何と秦の王政はわずか15年で滅んでしまうことになったのです。
劉邦の魅力と考える力
劉邦は今風の悪い言い方をすると、チンピラの兄貴みたいな出自の人だったようですが、劉邦の優れていた点は他人への感情量が極めて大きかったことにある気がします。
好敵手だった項羽にもそういうところがあったために「項羽と劉邦」の物語が大変後世の人たちに好んで読まれるようになりましたが、当時の人たちは今の私たちに比べて、感情のコントロールをそんなにしないで生活をしていたという話もあります。
劉邦は単に「みんなかわいそうだ」と思って「きまりをなくしてやれ」と考えただけだと思うのですが、政治や行政に関わったり利権が絡んでくると人はそんな単純な正しい判断もできなくなってしまいがちです。
劉邦は戦が弱く負け続けていて、項羽に対しても怖くて逃げだすようなところがある人物でしたが、そんな彼が漢の国を興すことができたのは、人に対する思いやりのレベルが極めて高く言って見れば懐が深い人物だったからだと言われています。項羽と比べて依怙贔屓がなく怖くない劉邦を周りが選んだという話が残っています。
そんなバランス感覚とやさしさがある彼だからこそできたのがこの法三章です。そしてそれは正しく考える力の賜物であったに違いありません。
利害や損得を抜きにして「どうするのが目的に対してベストなのか」を考え抜く力というのは本当に大切です。
この場合の一番の目的は「民衆への慰撫」であったので、劉邦の法三章の宣言は、まさに神のタイミングだったと言えるでしょう。
歴史の流れには見えないようで人の心と思考による必然の底流があるのかも知れません。

