「解体新書」
江戸時代中期、ドイツの医学書をオランダ語に訳した解剖学の書物「ターヘル・アナトミア」を、前野良沢、杉田玄白らが翻訳して出版した書物。それまでは西洋の出版物を翻訳した書物はなく、本格的な翻訳書の作成は日本で初めてのチャレンジであった。辞書もない中、本当に手探りで一語ずつ暗号解読のようにして解読が行われたとされる。
わが国で初めて人体の構造を明らかにした翻訳書「解体新書」の作成をした前野良沢、杉田玄白らは、辞書もなく、それぞれの単語が日本語では何に当たるのかすらほとんどわからない状態から、図を見たり、わずかな情報を手掛かりにして、1つずつその意味を考えて翻訳をしたと言われています。
想像ですが、1つの言葉の意味が分からず、何日もそれだけで時間を費やしたこともあったのではないでしょうか。
しかし、どうでしょうか。彼らは意外に楽しかったのではないかと思いませんか?
もしその時代にいてそんなチャンスにめぐり逢えたら、私もやりたかったと思います。
というのは、そこに学習する者の「わかる喜び」がたくさんあるからです。
たとえば、それまで何のことかわからなかったオランダ語の「schaar」という単語が、何らかのヒントからパズルのような組み合わせを経て「はさみ」という言葉だとわかったとします。
その瞬間彼らは、きっと震えるような「わかる喜び」を感じたに違いありません。
前野良沢は一説によると、自分の翻訳が不正確ではないかと心配したあまり、周りの反対を押し切り自分が主幹の翻訳者でありながら、ついに「解体新書」に自分の名前を載せませんでした。今でも彼の名前は書かれていません。
皆さんも「解体新書」と言えば杉田玄白と覚えている方の方が多いのではないでしょうか。
それくらい、言葉を訳すことのみに没頭して、その先の名声のことすら頭にはなかったということではないかと思います。おそらく良沢は、「学ぶ」という目的だけに向かって錐のように突き進んでいたのでしょう。
現在、英単語の意味を調べようとすれば、もちろん辞書があります。少し込み入った文法でも、ネットで検索すれば一瞬で調べられます。また教科書1つに対して、参考になる本がたくさん出版されています。
けれども、単語の意味がわからなくてそれを調べてわかったときに、彼らが味わったのと同じくらいの感動を私たちが味わうことはできないのではないかと思います。
もちろん、興味のあることを簡易に何でも知ることができる時代になったのは大変すばらしいことです。
しかし、情報がすぐ手に入るために、新しいことを知るという楽しさは少しだけ奪われてしまったように思います。
子どもたちにとって、前野良沢や杉田玄白が味わった翻訳での「わかる喜び」を現在に置き換えると、例えはあまり良くありませんが、ゲームのアイテムをゲットしたときの嬉しさのようなものかもしれません。
ポケモンGOで新しいポケモンが出てきて、「こいつは何だ?!」と思って急いで調べたりする、そしてそれを困難の末ゲットして図鑑を埋める、そんな感じでしょうか。
そう考えると、現代ではわくわくするものが勉強以外で多すぎですね。
しかし、もし生徒がポケモンをゲットするような喜びを学習の中で感じることができれば、それは学習における一番の推進力になるでしょう。
私はこれまで「勉強っておもしろい」と言う人で勉強が苦手という人を寡聞にして知りません。
学習者にとって一番大切なものは、そういうわくわくした気持ちだと思います。
だから、私たち教える側が一番プレゼントしなくてはいけないのも、そういうわくわくした気持ちなのだと思います。