因果律というもの
「この世を支配している原理は何か」
そんなことを考えてみたことはありませんか。
いろんな原理で世界は動いていますが、おそらく因果律というのがこの答えとしては一番しっくりくるのではないでしょうか。
この世のすべての出来事は、原因から結果が生じると言う因果関係によって起こるという決まりが因果律です。
法律学では刑法でも民法でも、相当因果関係(あることから結果が生じているのが相当であると言えること)が論点になることが多く、主観面を重視して判断するのか、客観面を重視するのか、一般人の視点を基準にするのかなどいろいろな学説が対立しているところです。
物理学などの科学においては、まさに因果関係を明らかにすることが、原理が真理であることを証明するために必須のことになりますから、非常に因果関係をどうとらえるかは大切となります。
哲学の分野でも、有名なアリストテレスやデカルトが因果性について考察をしており、古来因果関係はいろいろな面で研究をされてきているようです。
この世のすべてのことに因果関係がある
私たちは因果律に関して、
それがこの世に存在すること、
その例外はないことについて、
全く疑いを持っていないと思います。
学問ではなくもっと身近なことに話を変えて説明します。
「ボールを投げたらガラスが割れた」
こういう事件があったとします。
もしボールを投げるという事実がなかったらガラスは割れませんでした。
周囲の状況にもよりますが、ボールを投げるという原因があったからガラスが割れるという結果が起こったのです。
因果関係がありますね。
「ネコにかみつかれたら血が出た」
「スピードを出し過ぎたら止まれなかった」
というような物理現象はもちろん
「善い行いをしたら表彰された」
「歌が上手なので歌手になれた」
「世界を変える研究をしたらノーベル賞をもらった」
すべて因果関係があります。
「止まれない」という事実がすでに決まっていて、そのために「スピードを出し過ぎた」ということになるわけではありません。
原因→結果 という流れがあり
決して 結果→原因 という流れは現実にはありません。
もちろん頭の中ではいくらでも想像できますが…。
発想力というもの
では、本当に因果律には例外がないのでしょうか。
普通に考えて例外はないと感じます。
どんなことでも結果がある以上原因は必ずあります。
原因がないように見えても、それは「原因を特定できない」だけで、証明できるかどうかの問題に過ぎません。
どこかに理由が必ずあります。
原理というものには、ほとんどの場合例外というものがありますが、因果律だけはこの世を構成する例外のない原則のように思われます。
もし神や創造主がいるとしたら、この世を創った時にこの世をどのようなものにするかを考えた際、
「物事には必ず原因を創ろう」としてこの世を創ったのかも知れません。
では、どうでしょうか?
思考実験のようになりますが、あなたは因果律のない世界を想像できますか?
原因と結果が結びついていない世界です。
結果があるから原因が決まる世界
因果律が支配していない世界は、おそらくドラえもんのSFに出てくるような世界になります。
たとえば、のび太がジャイアンに殴られたという事実があり、
その事実が起こった瞬間に、のび太がジャイアンにいたずらをしたという原因が決まります。
出来事が起こるまでは、原因は決まらず不確定になるのです。
なにかおかしい感じがしますね。
「じゃあ不確定な間は現実はどうなのかが決まらないっていうこと?」
という疑問も生じて、荒唐無稽にしか感じません。
しかしそれは、私たちが因果律の支配するこの世界に生きているからです。
物事の可能性ということで言えば、「因果律の存在しない世界」を想定することは十分可能です。
「もしこのことがなかったらどうなるのだろう」
「こんな考えはできないか」
そういう風に自由に思考を延長させていくと、こんな「因果律の存在しない世界」も想定できるのです。
みなさんはどうですか。そんな世界を想像できますか。柔軟によく考えて見ると、おそらく「ああ、こんな感じか」と思い浮かべることもできるのではないかと思います。
現実に「因果律の存在しない世界」はあった!
ずいぶん昔のことになりますが、ふと「因果律の存在しない世界」のことを考えたことがあります。
司法試験の勉強で、来る日も来る日も刑法の因果関係に関する論証を論文試験対策で書きまくっていた頃、「刑法上因果関係がないっていうのは、因果関係が特定できないだけで、真実は因果関係はどこかにあるよな」と思ったことがあります。
たとえば「人が死んだ」という事実があるときに、被疑者Aの犯行が因果関係がなく否定されても、その人が死んでいる以上、「実は事故で死んだ」というような原因が別に必ずあるからです。
「じゃあ、もし本当に因果関係自体がない世界があるとしたら、『Aが犯人じゃない』って決まった瞬間に『事故があった』ことになるのか。そうすると警察や検察の仕事が減るな」などと考えたのを覚えています。
今思うとずいぶん気楽に勉強していたなと思いますが、そういう思考遊びは楽しかったです。
ところが最近になって、量子力学の世界は通常私たちが言うところの因果律が働かない世界であるという研究の結果が出たことを聞いて、本当に驚きました。
現実に「因果律の存在しない世界」があったのです。
シュレーディンガーの猫
「シュレーディンガーの猫」という話があります。
今ではかなり有名な話になっているのでご存じの方も多いかと思いますが、物理学者のエルヴィン・シュレディンガーが主張した、量子力学の確率論的解釈(二重性をもつ粒子と波が結果としてどちらで現れるかは観測時の確率によるという考え方)を批判するための思考実験です。
極小の世界では物質を構成する一番小さな存在である粒子は同時に波として存在するというのが、量子力学の世界ではかなり有力な説なのですが、「それじゃあ、こういうことになっちゃうよ」として主張されたのが、この実験です。
まず最初にお伝えしておきますが、あくまで思考実験ですので、ネコは現実には使いませんのでその点ご安心ください。
鋼鉄の箱の中にネコをいれておきます。
その箱に危険な放射線を放出する確率が5割の物質をいれます。
そして1時間後どうなるかを見ます。
当時主流であったコペンハーゲン解釈というものによると、マクロの世界(量子力学の対象ではない普通の世界)でも、現実が粒子と波動の二重性によって左右されているならば、箱のふたを開けて確認をするまでは「ネコが生きているか死んでいるかは現実が重なりあって不確定」という状態のままだと言うのです。
簡単に言うと
ふたを開けてネコが生きているという「結果」が分かった瞬間、「それまでの事実」が初めて決まるということになります。
それでは、この世界が因果律が働いていない世界であることを意味してしまいます。上記の例で言うとジャイアンが殴った瞬間に、のび太がいたずらをした事実が初めて決まるのです。
だからおかしいと言うのです。
「シュレーディンガーの猫」 は大変話題をよび議論がされましたが、どうやらマクロの世界とミクロの世界(量子力学の適用される微小な世界)では異なり、ミクロの世界のみは「因果律の存在しない世界」ともいえる世界であることが分かってきたようです。
このことは同時に、粒子と波動の二重性による確率論的解釈が量子力学で依然主流であることを意味しています。
これらの理論は最近はさらに「この世界は人が見ているときは存在するが、誰も見ていないときには実は存在していない」という、仮想現実の世界であるという説を裏付ける根拠になりうる理論にもなってきています。
量子力学の分野は研究のスピードが速いのか、どんどん新しい研究結果が出てきていますので、今後も目の離せない分野だと思います。
非常に楽しみです。
意外にも私が空想していた因果律の存在しない世界が実際に量子力学の世界にあったわけですが、可能性というものに一切制限をかけず「こう考えたらどうだろう」とあれこれ考えて見ることは、きっと新しい何かを見つける原動力になるのではないかと思います。
また「考える楽しみ」はこんなところにもあります。皆さんにもおすすめしたいです。
若い方は、可能性に一切制限をかけず自由に考えてみるという習慣をつけるといいと思います。新しい発想のきっかけになることがあると思います。
世界が広がりますよ。