【教師向け指導のコツ】相手にとって「何が必要なのか」を真剣に考えるということ。

 

枝葉末節は後で

講師の指導を見ていて、「せっかくいいところなのに」と残念に思うことがあります。

 それは、生徒が理解をしてきて「わかった」という瞬間を正に迎えそうな時に、水を差すことを言ってしまう指導を見たときです。

 たとえば数学で、連立方程式の加減法をやっていると生徒はいろんな書き方をします。

自分なりのやり方で+とーを途中で書き変えたりして、

指導する立場から見ると「こんなやり方でかえって混乱しないかな?」と思います。

もちろん、実際に混乱が生じる場合も多いため、最後には書き方の注意をします。

「ここで自分で符号を書き変えてしまったので、前とつなげて間違ったね」などとアドバイスをします。

 しかし、やり方を荒削りに覚えてきて、ようやく「ああそうか」とわかりかけたタイミングで

「ここの書き方をまず気をつけないと…」と言ってしまうのは、とてもまずいやり方です。

適切なタイミングがある

 物事にはそれぞれそれを行う適切なタイミングというものがあります。

ボールをまっすぐ投げることがまだできない子どもにカーブの指の握りを教える人はいません。

 勉強に関しては、チェックするポイントがたくさんあるため、どうしても指導する側は近視眼的になりがちですが

生徒のわかる喜びが満ちてきたときには、まずそれを十分に味わってもらうようにしたいものです。

 まず最初は「実質>形式」で良いと思います。

実質が整って来たら、やがて形も覚えるという流れの方が何事もスムーズにマスターをしていけるでしょう。

形式に走りすぎると勉強の面白さは失われることが多い気がします。

形式に振り回されない指導

 生徒と話していると妙な話をよく聞きます。

 中学の国語で、漢字のはねの長さが少し短いために、全部漢字を☓にされたり

数学で、解答も考え方も正しいのに、式が模範解答と異なっているので減点されたり

といったことが、教師の裁量で実際に行われることがあります。

*すでに文化庁から「字の細部に違いがあっても、その漢字の骨組みが同じならば、誤っているとはみなされない」との指針 が発表されていますが、これは、その指針発表後の話であり、いまだに一部の先生によりこれに反する細部にこだわった採点が現に行われています。

 単純にかけ算の式の順番が違うから誤りとか、およそ考えられない採点も目にします。

「交換法則を知らんのか?」と聞きたくなります。

 生徒の学ぶ楽しさやわかる喜びを失わせるような指導については、

学校で本当に教師の監督をしっかりしてもらいたいと切に願っています。

学校に失望した日のこと

 もうずいぶん昔になりますが、自分が教育実習に行った際に代表で模擬授業を全教員の前でやったことがあります。

 まだ本当に指導の右も左もわからない当時ですが、夜中まで準備して授業に臨みました。

 自分で言うのも何ですが結構いい授業でした。

社会の授業でしたが、導入から工夫もあり、ストーリー性もあり興味をもつ資料も準備して、見ている先生方もわりと引き込まれる内容だったと思います。

30年以上経った今振り返って考えて見ても、この時は当時の自分としてはベストのわかりやすい良い授業が出来たと思っています。

準備に時間をかけた事と、自分自身の意気込みがあって「良い授業を見せたい」という強い気持ちがあったのが良かったのだと思います。

 事実、講評の際には「頑張ったね」との労いの言葉がかなりの先生から出ました。

でも私はそれよりも、どんな所を気をつければいいのかがどうしても聞きたくて、批評の言葉を待っていました。

 しかし、複数の先生から出たのが、何と

「国民の『民』という文字の左下はとめます。はねません」という批評でした。

 やったのは社会科の模擬授業です。

 そして、内容についての具体的な批評はついに一つもありませんでした。

ただの一つもです。

 私が学校の教師にならなかったのは、司法試験を受験していたこともありますが、このときの体験で学校というものに落胆したということがわりと大きかったと思います。

重要なのは考え方

 今この時のことを冷静に振り返って考えると、

自分が教師を指導する立場を長くやってきて思うのですが

この模擬授業を見た先生たちは

後進の教師を育てていこうという気持ちというものが、まるでなかったのだと思います。

 私が代表を務める青雲学院では

教師研修の際には

「必ずその授業や指導の悪い点を言う」というきまりがあります。

そして、その際に枝葉末節の事を言うことも、できるだけ避けるようにさせています。

粗削りでも、生徒のためになる指導を出来る人材を早く育成することが最も重要だからです。

 漢字のとめやはねを軽視しているわけではありませんが

社会科の授業において、そのコメントが

コメントを受ける教師にとって、

そして新人教師の模擬授業を見る教師たちにとって

必要性が高いものであったとはとても思えません。

 誰か1人が気づいて言う事がもしあっても、普通であれば

「内容面はどうですか」という教師が一人くらいいてもおかしくなかったと思います。

しかしながら、貴重な時間を使った上に

「こんな緩い事をやっていて大丈夫か」と

当時のまだ経験もない私に思われてしまったのですから

とても残念な模擬授業だったと言えるのではないでしょうか。

 そして私は、そんな批評しかできない模擬授業をやっているような状況で

その後真に良い指導ができるようになるとは思わなかったのです。

 どうかこれから先生を目指す方、現在教師として活躍している皆さんは

物事に対する価値を重視した自分の「考え方」というものをしっかり持つようにしてください。

「良い授業をするための」考え方

「生徒の未来を大切にする」考え方

「良い後進の先生を育てるための」考え方

そういった大切な価値を常に念頭におき、「考え方」というものを大切にしていけば

いかなる状況でも、変な方向に道を誤らずに済むのではないかと思います。

 先生が自分の事や体裁ばかり気にして

価値観に基づく「考え方」というものに背を向けるようになれば

教師が人を導くことなどは出来ないと思います。

 別の言い方をすれば

「相手が何を必要としているかを真剣に考える事が教師にとってはとても大切」

だと言い換えてもよいでしょう。

 教師がそういう能力を失っていけば、その影響は必ず生じます。

いずれ世の中が悪くなってしまうという危険も、教育者の資質の劣化によっては起こり得ます。

大げさではなく本当にそう思います。

 指導に携わる全ての人が、価値の順序を間違えることなく進んでいけることを心から願っています。

追記:「民」の字の左下ははねるのが一般には正しい書き方です。とめるという当時の教師の指摘自体が誤っています。書道などの書き方で指摘した教師はとめるものと思い込んでいたのかも知れません。

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