わかることへのものさし

 何かについて会話をしているときに、お互いに話していることへのイメージが食い違うことがあります。

「目印は大きな入口」とか「いつも来ている人」というような受け取り方の違うあいまいな言葉によって生ずることもありますが、それだけでなく、人が持つ主観が千差万別であることにもよると思います。

 「わかり合う」ということは簡単そうに見える場合も意外に難しかったりします。そして、わからないということが怒りにつながることは、皆さん自他ともに経験があるかと思います。

 もし当事者が短気で思い込みが激しい人物同士であった場合には悲劇さえも生まれます。

 「わかること」に重要なのは、まずお互いのものさしを合わせてから会話するということではないでしょうか?そしてその前提として、お互いのものさしは元々違うのだということをしっかりと意識することが何より大切です。

 何となく他人もそう思っているはずだという思い込みが一番よくありません。教師の多くは生徒の指導を始めた頃にこのことを思い知ります。残念ながら気づかないままの人もいますが…。


 指導の際に、同じことを同じ表現で別々の生徒に話しても、多くの場合同じ反応は返ってきません。

そんなときは、具体例を挙げたり、言葉をよりわかりやすい別の言葉にしたり、理解できているラインにまで戻って説明したりしますが、これは、間違いのある教える側のものさしを別の正しいものさしに変えてみるという作業なのかもしれません。

 間違ったものさしを使っているくせに、「どうしてわからないんだ」と嘆く教師は、初歩から教師失格です。

 私たちはいつでも手に抱えきれないほどのたくさんのものさしを持って日々の指導にあたるべきだと考えています。 


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