【記憶の正体】「忘れない」学習とは?

なぜ覚えられない?

 テストが迫ってきているのに

時間ばかりかかって一向に暗記ができない生徒がたまにいます。

いや、暗記が普通にできる生徒でも

「取っ掛かり」が悪いと、特定の内容がどうしても覚えられないこともあります。

「おかしいな」と思いつつも

難しい単元だと解釈して流してしまうこともあるようですが

なぜか覚えにくい箇所と言うのは誰にでもあるものです。

 でもそれは、必ずしも単元自体の難しさや

自分とその単元の相性によるとは限りません。

暗記のやり方が良くないという場合も

実は多々あると思われます。

時間ばかりかかってなかなか覚えられない人は、やり方を誤解している

 よく見かけますが、時間をかけ暗記をしようとして一生懸命ノートに書いて、それを繰り返している生徒がいます。

そんな生徒に、そこに書いてあることを覚えているかどうかを確認するために、2、3聞いてみます。

 驚いたことに半分も答えられません。

 今書いていたところなのにです。

大変びっくりしますが、実はこれは特別な例ではありません。

 でも私は、別にその生徒の頭が悪いというのではないと思います。

そういう生徒も、何か約束事を口頭で言ってもしっかり覚えています。

また時には、私が話したことが誤っていた場合に、即座に誤りを指摘したりできるからです。

 おそらく「覚える」ということが、全く分かっていないのだと思います。

「覚える」ということは「作業」ではない

 一番多い誤解が、たくさん書いて見てさえいれば自然に覚えられるという誤解です。

そういう誤解を持つと、書き上げた時点で勉強が終わりになります。

 当然何も頭には入っていません。

 肝心の情報を頭脳に記憶させるということが、実質行われていないからです。

書いて見てはいますが、単に「作業」をして「風景のように」見ているだけなのです。

そして本人はなぜ覚えられないかに気づきません。

一生懸命書いて量をこなしているだけに

「勉強してもできるようにならない」と言って

嘆いてしまいます。

よく教師が

「記憶に残るように何回も書いて覚えなさい」

という事がありますが

それは、ある程度書くことで記憶に反映ができる技術を持っていることが前提の作業であり

「ただ書けば自動的に覚えられる」と勘違いすると

かえって逆効果の場合もあります。

実際、何回も何回も書いているのに

ほとんど覚えられないという生徒は

かなりの割合でいます。

完全に「暗記」ということを勘違いしていると言えます。

印象づけなど自分の定着パターンを多く持つことが大切

 何かびっくりした経験があると、人は必ずそれを覚えています。

 たとえば道を歩いていてAというビルの前に差し掛かったとき、Aのビルの中からなぜか中からイノシシが飛びだしてきたとします。

そのイノシシは「1」という番号のゼッケンをつけていました。

 びっくりしてよけたあなたは、おそらく「Aというビルで1番のゼッケンのイノシシが出てきた」という出来事を何年も覚えていることでしょう。

そんな変な出来事は普通ありえないことで、とても印象に残るからです。

そして理由もわかれば、笑い話としてずっとネタにして人に話すかもしれません。

 そしてこのことは詳しく他人に説明ができます。

おそらく小学校の低学年でもできるでしょう。

 ではあなたは、「Aというビル」「飛びだしてきたのがイノシシ」「イノシシの背中に1番のゼッケン」「ビルから出てきた」などという事実を覚えようとしたでしょうか?

答えはノーですね。

印象づければ、暗記は最小限でできるというのはこういうことから言われているのだと思います。

方法は非常にたくさんあります

 印象づけで何かを覚える方法はたくさんあります。

ここでは触れませんが、それ以外にも覚えるための定着法はいくつもあります。

 今回お伝えしたいのは、

「覚える」という意識を持たないと、自然に覚えられないことは多いということです。

だから「作業」を「覚えること」と誤解している人は、すぐにやめた方が良いでしょう。

私はやり方の悪い生徒には、

「100回書いて覚えないより1回書いて覚えれば、その方がいいに決まっている」と話すことがあります。

 こういう考え方を知ることが、「覚えること」が目的なのだという意識を持つ手助けになります。

 「勉強は時間を少なくして合理的に行う」

それが一番良いのですが

今の絶対評価の学校では、「作業」や「やっているという実績」が、とても高く評価され過ぎているため、

残念ながらピントがずれてしまっているところがあるように思います。

 生徒のためには、たとえば昔の落語の稽古のように

師匠が話してそれを聞いていて、すぐに話をさせて

できなければ叱られるというような方法が、

実は合理的なのかもしれません。

 そこでは「覚えているかどうか」だけがシビアに問題にされるから、弟子は覚えることのみにすべてを集中できるからです。

何回紙に書いたかとか、ノートを何冊提出したかということは

一切関係がないのです。

「記憶する」ことと「書く」という事は

上手く結びついて円滑に行く場合もありますが

そもそも別の事です。

「記憶する」ことは

その意識さえあれば

お風呂の中でも、電車の中でも

空や海を見ながらでもできることなのです。

まずはそういう意識を持つべきです。

そして「記憶した結果」に価値があり

「記憶する過程」などは手段に過ぎないという事を

改めて知ることが重要なのだと思います。

 今後も皆さんのお役にたつ情報をアップしていきます。


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