常に清潔で人に迷惑をかけず、人と協調して…
最近の子どもたちを見て、「大変なのかな」と感じることがあります。
塾の教室は大体通学路にあるので、夕方家路に向かう子どもたちを見るのは昔からの日課なのですが、歩く子どもたちに年々勢いが感じられなくなってきています。
もちろんここ数年の例の騒動の影響は大きいのかも知れませんが、それ以前でも、みんな何だかお行儀が良くなりすぎてしまった感じを受けていました。
10年前には、月に一回や二回は通りで他の生徒に悪さをしている子どもを見たものですし(出て行って叱ったりもしました)
もっと前だと、塾に悪戯をして行くような子どももいました。今ではちょっと考えられない事ですが…。
時々小学校に苦情の電話をしたりしたのを覚えています。ただ最近ではそんなことは全くないので、今思うと意外に楽しい思い出だったようにも感じ始めています。
最近いろいろなところで言われ始めていることですが、こういう状況が起こりつつあるのには、「社会のホワイト化」が過度に進み過ぎて、世の中全体に余裕がなくなってしまっていることに関係があるのかもしれません。
「社会のホワイト化」というのは、たとえば企業を「ブラック企業VSホワイト企業」のように、正しい待遇をしている企業とそうでない企業に二分化して、
「ホワイト化を目指さないのは悪である」というように、
とにかく理想に向かう姿勢を取らないこと自体を、社会全体として許さないというような風潮や傾向を言います。
もちろんブラック企業など決して許すべきではありませんが、「ブラック以外すべてホワイト」というわけでもありません。何事も本来はバランス感覚が重要なはずです。
しかしメディアの極端な情報伝達によって、世の中の「悪人」と言うものが過度に強調されるようになった結果、
以前に比べてずっと「『世の風潮に沿って』倫理的でありたい」と感じる人の割合が多くなってきているようです。
小学校の低学年と言えば、昔は泥んこになって遊びまわって、男子が女子を泣かせたと思ったら、今度は女子がみんなで乱暴な男子を糾弾するような、そんな粗野な面や真正面からの正義感をストレートに出すような子供も多かったように思います。
しかし今やそんな子どもを探すのはなかなか困難になってきています。
そういう、「良く言えば子どもっぽい悪事。悪く言えば無遠慮な乱暴」と言った行動は、家庭でのしつけも良くなったこともあり、すでに一般的には消滅したと言っていいのかも知れません。
でも今度は逆に、少し変わった行動をとってしまった場合、それが「『世間で言う正しい風潮』に沿っていなかった時には、周りに簡単に冷厳に見放されてしまうような、「静かな孤立」とでも言うべきものに直面しなくてはならなくなってきている気がします。
顔中涙をボロボロこぼして大泣きしている子どもを、いつの間にか街ではあまり見かけなくなりました。
子どもの世界にも、私たちが気づかない間に強い同調圧力がかかり始めているのかもしれません。
「なぜなら、私は弱い時にこそ強いのですから」
「なぜなら、私は弱い時にこそ強いのですから。for whenever I am weak, then I am strong.」という言葉は、聖書のコリント人への第二の手紙の中にある言葉です。
以前から聖書に詳しくない私は、これが具体的にどういうシチュエーションを示す言葉なのかがわからず想像できませんでした。
逆説的な言葉であるのはわかりますが、これによって伝えたい趣旨は、「『弱いけど神が助けてくださる』的なものかな?と漠然と思っていました。
しかし最近いろいろな情報に当たってみて、どうやらこの言葉は、
「人が自分を弱いものだと気づいてそれを悟ったときにこそ、その人は強さを身に着けることになる」
という意味の言葉ではないかと思うようになりました(学問的な解釈として正しいかどうかはわかりません)
聖書という形の教えであるために、「弱さを認めて神の世界に身をゆだねる」というような表現になるのだと思いますが、実質的に言いたいのは
「『自分は強くなくてはならない』という気持ちでいる間は、心が休まる時がない」という事ではないかと思います。
「弱いままでも、自分は神に許されている」
「自分は弱いけど、だからといってダメな人間ではないんだ」
そういう気持ちを持つことで、人は生き抜く勇気や他者への優しさとか思いやりを持てるようになります。
それこそが実は「弱さ=強さ」という事の本当の意味ではないかと考えています。
何かすごいことをやったり、出世したり、多くの人に認められないそんな自分でも
神が十分に認めてくれていて、しかも応援してくれているというならば、開き直って何か良いことをできそうな気もするし、何より元気が出てきますね。
もう少し弱さを許す社会であってもいいのかも
「清潔でありたい」
「人には迷惑をかけたくない」
「ほかの人と同じようにしていたい」
そういう気持ちはだれにでもあります。
しかし、汚れてしまうこともあります。故意じゃなくて人に迷惑なことをしてしまうこともあります。いつの間にかほかの人とは違ってしまうこともよくありますね。
そんな時に、「ああ、自分はダメなんだ」と思って
完全な状態と比べて落ち込むのは、もうやめにしませんか?
もちろん努力して達成できることをやってみるというのは価値があることです。
でも、何もかも世の風潮通りの完璧にやっていくことはなかなか難しいことです。
何しろ今では、ちょっとした疫学的検査で何かひっかかったら、下手をすると犯罪者のようにさえ扱われてしまうような、そんな世情です。
何もかも世の風潮通りに合わせて生きていくのは、そのこと自体がいろんな意味で大変になっているのです。
だとしたら少なくとも、子どもには少し肩の力を抜かせてあげてもいい気がします。
これからの社会は彼らが回していくのですから、あまり優等生過ぎても困ると思いませんか?
今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。