【思考が世界を創る】あなたは好きですか?「雨の朝」

雨の朝

 今朝は早朝から雨が降り続けています。

こんな日は多くの人が「ああ今日は雨だ」と嘆いて、大体の場合自分が濡れて不快感を持ってしまっている様子を想像するかもしれません。

あるいは今日の雨は割と強めなので、暴風で飛ばされそうになり、傘が折れそうになっている状況を思い描いたりするかもしれませんね。

 私は前にも何回か記事にしたことがありますが、中学生時代陸上部に所属していて、割と練習がきつかったので、雨の日を切望していた時期があり、それが何か心の底に残っていて、意外に雨が好きです。

 そして何と動画チャンネルを見ていたら、私と同じ経験で雨も好きだという人がいたので、共感したという話も前に書いたかと思います。

 天気一つにしても人の感想は色々なのだということは、なかなか気づきません。

なぜなら、自分は他人とは違うからです。

 物事について他人がどう感じているかということを知る機会は、友人との会話などで結構あるように思いますし、学校やメディアを通して一般常識的な意識を私たちは取得するので、なんでもよく知っている気分になっていますが、本当にそれだけで十分なのでしょうか。

雨の朝の教室風景

 私は雨の日の朝に、たとえば曇り空であたりが薄暗くなってしまっている中、コンビニに電灯が付いていてそこに人々がいる風景を見たりすると、中学時代に雨の朝感じた気分を思い出すことがよくあります。

 それは、こんな情景です。

 クラスのみんなが雨合羽を着て自転車に乗って登校してきて(割と自転車通学が多い学校でした)それを脱ぎつつ教室にだんだんに生徒が増えてきて、まるでそれが避難所みたいな感じで非日常感がある、そんな風景…

そして朝なのに外が暗くて、合宿や修学旅行みたいに夜っぽい感じがあって、その中で皆がいるという、ちょっといつもとは違う雰囲気…

自分だけが感じたそんな情景感ですが、いまもその感覚はよく思い出します。

 私は塾を経営しているので、仕事の始まりは大体午後になってしまいますが、別の仕事をして勤務していたころには朝から出勤をしていたので、職場でも朝の雨の日にはやはり同じ感覚を持っていたように思います。

結論から言うと、そんな「非日常感のある雨の朝の教室(部屋)のひととき」が大好きということになるでしょうか。

情操まで統一?

 現代においては、情報というものの重要性がよく話題になりますが、実際には私たちは主に学校やメディアからの情報を得て、色々な事を学び思考を繰り返しています。

そしてそこで得る情報についてはほぼ無条件で信頼をしています。

だからそこで得た情報は知らないうちに、「これが当たり前」という常識を形作っています。

「お天気は嬉しい」「雨の日はブルーな気分」そんなステレオタイプで単純な意識というわけでもなくて「楽しい雨の日」というようなお話ももちろんあるのですが、

それでも何というか、思考の傾向がある程度の振れ幅の中に押しとどめられてしまっているのは、間違いなく教育やメディアによる情報によるものであると言えるでしょう。

基本的にはそれは良い事ではあります。

しかし、単なる情報ではなく情操的な感覚までも私たちは無意識に「他人と同じでなくてはおかしい」というイメージを持ってしまっていることが多い様にも思います。

だけどここで再認識すべきなのは、人は本当に千差万別で「すべての人は他人と違う存在である」ということです。

だとすれば、「物事への感じ方が同じである事の方が考えられないほどの偶然である」というのが、本当は本来の姿なのではないかと思います。

今回は雨の朝のお話ですが、大げさに言えば、「人によって見ている世界は全く異なる」というのが本来で、これは何も雨の朝の感じ方にとどまる事ではないのです。

よく言われる「思考が世界を創っている」ということになるでしょうか。

本当の所は、情操も含めて私たちは「これはこういう事だよ」という事を社会によって指導されていて、「こうあるべき」という感覚を徹底して持たされているということだけは、しっかり知っておくことが重要ではないかと思います。

何も雨の朝を好きになれということではありません。

今回お伝えしたかったことは、本当はもっと自由にこの世界を楽しみ、自分の好きなように世界を見ても良いのではないか、ということです。

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