【ケ・セラ・セラ Whatever will be, will be.】現実に存在しない「過去と未来」

あなたの知っている過去は本当?

 私は子どもの頃親の仕事の関係で、ずいぶん引っ越しをしました。

 まだ幼くて学校に上がる前の引っ越しが多かったので転校自体は1回だけでしたが、住む場所が次々に変わるのは、子ども心にはちょっと落ち着かない気持ちもありました。

小学2年生になって以降はずっと同じ場所で暮らすようになったので、自分の住処という意味でのアイデンティティということでは、それ以降になって出来上がったようにも思います。

それ以前は、なんだか今思い出しても、ふわふわと自分の拠点がどこだかわからないような気分もあったように思います。

 大人になって、その頃の事を振り返る機会があって、「ああ、そういえばあそこに住んでいたなあ」ということで、訪ねてみることが何回かありました。

やはり自分が昔住んでいた場所は、幼少期であっても懐かしいものです。

ところが、複数引っ越しをしてきたどの場所に行ってみても、まず住んでいた場所自体があまりに変容していてわかりません。何しろ当時でも少なくとも30年以上は経っていたので、住宅地の様子が様変わりしているのは当然でした。

ただそんな場所でも、「ああ、ここをよく歩いた」というような場所は残っていて、懐かしく当時を振り返ったりしました。

それで気づいたのですが、記憶に残っている場所であっても、自分の記憶にあるその場所とは何か大きく違うのです。

「どうしてこんなに違って見えるのだろうか?」そんな風に思って、一度写真を撮ってきて研究(?)してみたことがあります。

何回も写真を見ていて分かったことは実は単純なことでした。大人と幼児とでは見る高さがちがうのです。

当たり前のことですが、低い位置から見ていたその場所の様子と、大人になってみたその場所は全く違う風景だということです。

物理的には納得したものの、実際に自分の受けていた印象とその場所の現在のあまりの様子の違いにはかなり驚かざるを得ませんでした。

「ここは場所は同じでも違う場所だ!」そう叫びたい気持ちでした。

 過去の記憶の中にあるその場所は、大人になった私が見たその場所と同一箇所であっても、主観で言えば、「違う場所」と言っても良いくらい違っていたのです。

記憶と言うものは実にあいまいです。これは年を重ねるごと、みなさんも実感として気づく方が多いかと思いますが、

思い込みだけでなくその当時の自分の心境や立場によって限定されて情報を取り込んでいたものが記憶ですから、あいまいで当然なのです。デジタルデータとはちがいます。

行ってみれば過去は人の記憶の中にしかないということです。今現在目にできるものではなく、そして極めて属人的で個性のあるものが過去なのです。

あなたの知っている過去は、あなたにとってはおそらく本当の事ですが、ひょっとしたら他人にとっては、評価や視点が違うという意味で「違う」過去が本当の事なのかもしれません。

過去も未来も現実には存在しない。

 過去はこのように現実に今存在するものではなく、人の記憶の中にあるものでしかありません。だから評価をかえることで過去は簡単に変えられます。

では未来はどうでしょうか?

私たちはたとえば「過去にこういうことがあったから明日もきっとこうなるだろう」そう思って未来のことを考えます。

そして不安や心配というのは、過去の自分の記憶を元にありもしない未来を自分があくまで主観的に予測している状態にしかすぎません。

今現在には、不安も心配の対象は、現象として実在しません。不安と心配は、まだ到来していない未来、それも自分が勝手に作っている記憶の中の過去のデータから無理やり予測した未来を、あなたが今考えているというだけのことです。

今考えているという意味においては存在しますが、実際の危険ではないのです。

そしてこれらの事をまとめると、「未来と過去」は現実には存在しないということになります。

人を苦しめて人生を苦難の連続にしているものは自分自身のエゴだと言われますが、そのエゴに囚われてしまう最も大きな原因は「過去と未来」があたかも現存しているかのように思ってしまう人の錯覚にあると言われています。

人はだれでもきちっとした過去があり、その延長上に現在があり、そして無理なくそのまま未来へと時間が流れるように感じていますが、それこそが人が頭の中で創り出し続けている妄想なのかもしれません。

 そしてそれに気づくと、「未来なんてどのようにもデザインをしていける」という極めて重要な真実に気づくことができます。

「ケ・セラ・セラ」

 ドリス・デイの有名な曲「ケ・セラ・セラ」は、ヒッチコック監督の「知りすぎた男」という映画の中で歌われた曲で、

世界中で流れ、誰もが一度は聞いたことがある曲だと思います。

私も何度も聞いて、そのメロディや 「ケ・セラ・セラ」 という言葉については、繰り返し耳にしていました。

 しかしこの言葉の意味について知ったのは、実はずっと後でした。

「ケ・セラ・セラ」 は「なるようになるさ」という意味の言葉です。

 由来について調べてみたら、元々はイタリア語の言葉をスペイン語風につづりをいじった造語っぽいです。

 それにしても、なかなかいい言葉ですね。

これはもちろん、厭世的に「どうでもいいや」という意味ではありません。

歌詞の流れからすると、「くよくよ先のことを考えても仕方がない。なるようになるさ」という前向きの「なるようになるさ」です。

 しかもメロディーが抜群にいいので、その意味を知ってから、私はこの曲が大変好きになりました。

Whatever will be, will be.

 でもこの言葉が、英語ではない外国語だったので、

「私は、じゃあ英語と何て言うのだろう」そう思って、調べてみたら出てきたのがこの英語のことわざです。

Whatever will be, will be. 「なるようになるさ」

 大変格好いい言い回しですね。

直訳すると、「(未来に)あることは何でも、(未来に)あることになる」

あるいは「(未来に)なりうることは何でも、(未来に)なりうる」というような意味ですが、ざっと意訳すると「なるようになるさ」ということになります。

 この英文は、ほぼ同じ意味の「What will be, will be.」などとともに、高校の文法学習の関係代名詞、複合関係代名詞の題材として登場することがある英文です。

 こういう短い英文のことわざが、響きも良く何となく素敵に聞こえてしまうのは、私に英語文化へのコンプレックスがあるのかなとも思ってしまったりしますが、それにしても、短い中に「真実を持つ響き」のあることわざだと思います。

未来は何もまだ始まっていない

 私たちは、未来に対して様々な夢を抱くとともに、色々な不安も持ちます。

 そして最近では特にマスメディアが、人々を不安にするための機関に実質成り下がってしまっている感もあるため、テレビなどを長く見る人ほど、消極的な情報を脳裏に印象付けられてしまったりしています。

 しかし、ここで皆さんに気づいてほしいことは、いつでも、どんな時でも「未来はまだ少しも始まっていない」という真実です。

つまり、すでに書いたことの繰り返しになりますが「いつでも未来は変えられる」ということです。

不安材料を探していけばきりがなく、自分などは何も変えられないと思うかもしれませんが、よく考えてみれば、それはどの人にも平等に同じ事なのです。

 未来は変えられます。このことわざを読むたびに、私はそんなことを考えます。

皆さんが、この素敵なことわざを読み前向きになって、これから素晴らしい未来を創ってくれたらうれしいです。

「過去と未来」は現実には存在していないのですから・・・

 今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。

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