何となくわかる
私たちが普段の生活をしていて、「なんとなく」書庫を見たら今日までが期限の書類が入ったままになっていたとか、「なんとなく」散歩していたら今日電話するつもりの人に出会ってしまった、なんていう偶然が起こることがあります。
これは私自身の経験になるのですが、何か思考をしているときにはそういうことは起こりません。どちらかというぼーっとして思考をしていないときに、そんな「なんとなく」気になる事につられて行動したときに、それはよく起こる気がしています。
ここからは推測になり理論的な根拠があるわけではない話になりますが、おそらく思考を働かせている顕在意識が作動している時には、勘が良くなるというか余計な邪魔が入らないため自分自身の中にある潜在意識の働きが上手く作動するようになっているのではないかと思います。
いきなり意識の働きの話になってしまいました。まず意識というものがどのようなものかについて説明をしますね。
人の内面の階層
私たち人の内面にはいくつかの階層があると言われています。
まず普通に言われる意識というものと、それに対比する無意識が当然対比されますが、その無意識の中にも個人的無意識と集合的無意識があると言われています。
詳しく説明します。
大きく分けて人の精神領域には「意識(顕在意識・consciousness)」「個人的無意識(潜在意識・personal unconscious)」「集合的無意識(collective unconscious)」の3段階があるとされています。
これはスイスの精神科医で心理学者のカール・グスタフ・ユングが提唱した分析心理学の概念です。
顕在意識は普段私たちが思考をしたり何かを感じたりする精神領域であり、分かり易いものであると思いますが、潜在意識(個人的無意識)となると、聞いたことはあっても漠然としたイメージしかないかも知れません。
考えなくても靴下を履ける理由
潜在意識について簡単に理解ができる話としてこんな例があります。
あなたが幼児の時代には、シャツのボタンをするようなことはもちろん、靴下1つ履くのもなかなかむずかしかったはずです。
しかし親や周りの人に教えてもらって、たとえば「まず靴下を両手に持って」「穴の開いている方を足の先にあてて」「そこへ足を入れていく」「同時に靴下を順に足に上げていく」などど一つずつ手順を学んだはずです。
そして最初はそれを一つずつ確認して、しっかりと顕在意識に記憶を刻み込ませて、ようやく靴下を履いていたはずです。
でも今あなたは靴下を履くのに、このような手順を一々頭で考えなくても、何かやっていたり人と話をしながらでも、半ば自動的にそれをすることができるはずです。
言うまでもなく潜在意識の働きでそういう事ができるわけで、分かり易く言えば、潜在意識に靴下の履き方というマニュアルがしみ込んでいる状態です。
実は知らない間にあなたは過去に靴下を履くことを覚えた頃、どこかの時点で「靴下を履くのに一々顕在意識による確認は不要とされる状態」を設定していたということでしょう。
集合的無意識
さらに人の深層心理を探っていくと、集合的無意識にたどり着きます。
集合的無意識は、人間の深層に存在する、個々人の実際の経験を越えた多くの人(最大では人類全部)に共通した先天的な精神領域で、普遍的無意識とも呼ばれます。
この集合的無意識というものは、人が誰かから学んだりすることによって個人的に獲得されたものではなく、最初から備わっている(心の奥底にある?)もので、それは一度も意識(顕在化)されたこともないというのが特徴です。
人間の精神的活動がすべて大脳皮質の働きによるものであるとすると、このような集合的無意識も当然遺伝によってそれぞれ親から子へ伝承されたということになるでしょうが、何となく「無意識が遺伝される」というのはしっくりきません。
逆に、そうではなく「無意識と言うものが他人と奥底でつながっている」ということであれば、遺伝ではなく元から集合的無意識部分で人は相互につながっているということになるかと思います。
ただこちらの考え方の場合には相互がつながっている」ということがどうしても普通にはわかりにくいところです。
このようなことを理論的に解決するには一体どうすればよいのかとなります。
そこであくまで論理的に帰結を考えていくとこうなります。
「私たち個人は分離された存在であるが実は人間というものは本来分離されていない1つの存在である」という結論です。
現在多くの人が研究(検討?)を始めているワンネス(oneness)の考え方はここから広がったものではないかと思われます。この稿では詳しく触れませんが、巷で言われている「引き寄せ」はこの分離とワンネスの違いによって起こされているという説もあります。
阿頼耶識(あらやしき)
話は変わりますが、仏教の言葉で「阿頼耶識(あらやしき)」という言葉があります。
これは、人が持つさまざまな表面的な知覚や世の中の現象に対する認識や意識の根底にあるといわれる識(精神活動)の事を言います。
大乗仏教に瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)という学派がありますが、阿頼耶識は元々はこの学派の主張によるもののようです。
5つの識(知覚)である 眼識、耳識、鼻識、舌識、身識 を始めとして順に→ 意識 → 末那識(まなしき) → 阿頼耶識と段々深く意識作用があるとされます(八識と呼ばれます)
阿頼耶識は、個人存在の根本にあって通常は意識されることのないものですが、阿頼耶識に備わっている業力は、結果として現れるまでずっとその力は消えないそうです(業力不滅)
「阿頼耶」はサンスクリット語のalaya(場所)に由来しており、本来の意味は「蔵」を表すとされています(蔵識とも言われる)
末那識(まなしき)以降が無意識の世界ですが、阿頼耶識にはすべての知識や経験が蓄えられていて、末那識より一段深い無意識であるとされます。
阿頼耶識と集合的無意識
阿頼耶識は仏教の言葉ですが、ユングの集合的無意識に近い概念を示すものと言えるかも知れません。
ここで微妙なのは阿頼耶識が個人の範囲にとどまる概念なのか、それとも集合的無意識のように他の人ともつながりがあるものかどうかですが、
八識の考え方とユングの意識・無意識についての発想がかなり似通っている内容であることに気づきます。
どちらの考えにおいても、実際に表面に現れている知覚や意識は、精神的作用のごく一部であってその下に非常に大きな無意識部分があるようです。
ユングの考えた意識・無意識のイメージについては「意識は氷山の海面に出ている一角であり、潜在意識はその氷山の海中部分で、海面に出ている部分より非常に大きな割合を示している」という説明がされることがあります。
つまり結論として洋の東西を問わず「人の意識は深層でつながっている」という事は昔から言われてきたということなのです。
私はおそらくそれは真実であると考えています。
潜在意識を利用する
話が深層心理の底にまで行ってしまいました。話を元に戻します。
私たちの精神構造の中には潜在意識があり、これに無関心でいることは、自分に備わっている基本的な機能を利用していないと同じ事になると思います。
何もかもを思考で解決していこうとすることは、合理的のように見えて意外にうまく行かない事も多くあります。
たとえば寝起きのぼーっとした頭で「なんとなく」浮かんできたことが、何か月も悩んでいた事の最善の解決案だったというようなことがあります。振り返ってみると私の場合には、大半の最善策はそういう形で浮かんできたように感じています。
潜在意識を利用するなんていうと大変難しい事のような気がしますが、意外に簡単です。
コツは「素の自分を信じて任せる」ということにあるとおもいます。つまり思考ばかりしている癖をなくして「何となく」気になったことを片付けるということです。
私たちは自分では気づいていませんが、「思考という癖」を朝から晩まで繰り返してしまっています。一度「思考という癖」を手放してみませんか。
思った以上に物事が上手くいくことに気づいてびっくりするかもしれませんよ。