アルカポネを大儲けさせた禁酒法
禁酒法:もともとはキリスト教のメソジストが禁酒を主張したのが始まりとされるが、次第にアメリカ全土に禁酒(酒の製造・販売・輸送など)を法律によって強制する動きが広がり、1920年から約13年間アメリカで連邦法として施行されていた。ボルステッド法(国家禁酒法)と呼ばれる。
最近、禁酒を市民に強制する行政の動きが問題になっていますが
元々「禁酒法」はアメリカで1920年代頃実際に連邦の法律として施行されていたものです。
悪法の代名詞として有名なこの法律は、最初は「高貴な実験」として社会的なマナーを守ることを良しとする人々や、酒に酔って暴力を振るう人に被害を受けた人たちなど多くの人の意見を元に制定されたと言われています。
時のウィルソン大統領はこの制定に対して拒否権を発動しました。しかし連邦議会の再議決により制定されたといういきさつがあります。
実際には、飲酒をする事自体は禁じておらず、製造販売側のみ規制の対象としていたため、当然のことながら、消費がなくなることはなく、結果として密造や密売が横行しました。
「人々の嗜好にまで国家が口出しをする」という意味での悪法というだけでなく、規制の対象に偏りがあるため結局規制の効果があげられない「ざる法」であったともいえます。
このような事を背景として、酒の密造・密売にマフィアやギャングが絡み大きな利益を得るようになります。
シカゴの有名なマフィアのボス、アルカポネはこの禁酒法をきっかけに勢力を大きくして、暗黒街で黒幕として多くの犯罪を行ったと言われています。
この当時過去に例がないくらい犯罪の数が多くなったという記録もあるようです。
このように人の活動を恣意的に制限しようとする場合には、それが仮に国家が倫理的に「市民はこう生きるべき」というようなテーマを持って規制をする場合(パターナリスティックな制約と言われます)であっても、
簡単に言うと「余計なお世話」であり、
いかなるときも「市民にはしたいことをする権利がある」のです。
たまたま国民を代表して、国民の権利を守るためと言う条件の下に政治権力を持たされているに過ぎない為政者が
なぜ国民の日常生活の楽しみの細部についてまで、法律で規制することができるのか、
それをきちんと考えないと、こういう失敗をすることは目に見えていたことではないでしょうか。
結局、ルーズベルト大統領の時に禁酒法は廃止されます。
これにより国家の税収が急激に上がり、大恐慌からアメリカが脱出するきっかけの一つとなったとも言われています。
飲酒までも悪者にする愚策
アメリカの禁酒法は、少なくとも議会で所定の手続きを経て
立法目的も、ある程度の社会的な妥当性を担保したエビデンスと論理に基づいて
制定された法律でした。
ところがわが国で昨今知事の専権措置として行われている、酒類販売の自粛要請や
街で酒を飲んでいる人たちの取り締まりは
議会によって制定された法律によるものでさえありません。
「酒を飲む人がたくさんいると気が弛むから、感染症が流行するに違いない」という漠然とした考えのもとに、知事の指示による行政行為として行っているにすぎません。
飲食店で感染症が多く出ているというデータは存在しない上に
酒を出す飲食店でそれが顕著だというデータも全く存在しないようです。
むしろ感染症の大半は介護施設や家庭で流行しているのがデータとしては現況のようです。
だとしたら、酒類販売や飲酒する自由を制限したりするのは
完全に営業の自由や行動の自由を侵害する憲法違反の行政行為です。
驚くべきことは
これらがすべて「自粛要請」という形で行われていて
だから議会による民主的基盤の担保も不要とされているのに
その実、「自粛に応じないから過料」という論理的に破たんししているようにも感じられる特別措置法の趣旨によって
市民への人権制約が行われていることです。
言うまでもなく「自粛要請」への回答は「拒否」「了解」の二つであり、どちらを選択しても「強制力の発動は一切できない」というのが法論理上当然ですね。
というより、そもそも任意の行為である「自粛」を第三者が「要請」するという文言が既に矛盾しています。
「自粛」は自発的行為なので、「示唆」はできても決して「要請」はできませんから、この二語をつなげるのは語彙として誤りです。
一体私たちの政府や公共団体に何が起こってしまったのでしょうか?
先は見えている
「現代の禁酒法」といわれる今回の措置については
各所でこれを「人権侵害である」ということを訴える声が上がっていますが
当然のことです。
日本人は規律を尊び、調和と寛容を旨とする国民性をもっています。
少しくらい「お上」が間違ったことをしても
反省してそれからしっかり国民のことを思ってやり直してくれるなら
「まあ、しっかりがんばれ」
そんな声をかけるような人々が多いのだと思います。
だから、今のこのような違和感ばかりある行政の動きも
軌道修正されて正気に戻る日がやってくることを
一庶民としては切に願ってやみませんが
もし、このような事が続くのであれば、市民はいつまでも微笑んではくれないという事を
為政者は知るべきかもしれません。
現代では、絶対王政の時代のように、為政者の権力は天賦のものではなく
「国民の権利を守る」
その条件の下、権力を仮に託されたに過ぎないからです。