【学問の終焉】権力者の顔色、世間の顔色を窺う「曲学阿世(きょくがくあせい)」とは?

曲学阿世(きょくがくあせい)

 学問や研究をする人たちは、世間や権力などとは無縁で孤高なイメージを持たれがちですが

実際には学問や研究にはいつでもお金がかかり、またそれを公に認められなければ意味がないと考えている人も多く

そのためにどうしても、そう言った方向からの影響を受けざるを得ない面があるのかもしれません。

「曲学阿世」という言葉があります。

これは学問の道理を曲げて(曲学)、世間に阿る(おもねる)ことを言います。

『史記』の「儒林列伝」の中の「公孫子、正学を務めて以て言え、曲学以て世に阿る無かれ」が由来とされます。

「公孫子(人名)、正しい学問を一生懸命やって、遠慮せずありのままを言いなさい。学問を曲げて世に阿るべきではない」という意味です。

 学問は、それが真実を探究するものであればあるほど、世間の理解を得られない場合があり

 またその対象が、大きな利権に関われば関わるほど、権力者にとって都合の悪いものになることも多いのです。

 だから古来研究者というものは、その時々の政治権力者に都合の良いように道理を曲げて、その意向に沿った結果を上程することが多かったのでしょう。

そのため、こういう戒めの言葉(曲学阿世)が生まれたものと言えます。

馬と鹿の話

 時代は前後しますが、秦の悪名高い宦官(かんがん)趙高(ちょうこう)の有名な逸話「馬と鹿の話」は

曲学阿世そのものではありませんが、常に権力者の前では道理が簡単に曲げられてしまうということを表すものです。

 趙高は秦の二世皇帝の胡亥(こがい)に、 鹿 を「これは 馬 です」と言って献上をします。 胡亥は怪しみ「それは鹿じゃないか」と言いますが、趙高はわざと群臣に「これは馬だよな」と聞きます。

 群臣は明らかにそれが鹿であるとわかっていましたが、趙高の持つ巨大な権力を恐れて皆それが鹿だとは言えませんでした。口々に「そうです。馬です」と答えました。

そして「鹿」と答えた者は、皆暗殺されてしまったのです。

 「馬鹿」の語源となったこの話は、真実と言うものは権力の前ではいかに無力であるかを示しています。

曲学阿世に走ってしまう学者の立場にも同情する面はありますが、でももしそんなことをして、それがために誰かに被害が及ぶようなことがあれば、それほどの悲劇はないでしょう。

そんな事態に陥るならば、もう学問をやめるべきです。

真実や人権の価値を見つめ直す

 単に試験に受かりたいというような勉強の域を超えて、人類の未来や夢実現のため、あるいは世界の真理を追究するための学問というものは、

それが「人々のために真実を解明する」という一点において、きわめて高い価値を有します。

 社会科学である法学においても、それが個人が本来有している人権を権力者から守り「個人の価値を守る」という面において、それは高い価値を持ちます。

 もし権力を有する者を恐れて、自ら真実を曲げて伝え、あるいは人権を軽視するような言動を導くようなことになれば

それは学問や科学の自殺行為と言わなくてはならないでしょう。

断じて、そんなことはあってはいけません。

 昨今の世情を見ると、医学や法学の分野では、

本来は、真実を科学的論拠に基づき解明をしたり、誤った情報によって道理に反した人権制約を受けている人を守らなくてはいけない医師や学者の多くが、

私たちが知らないだけかもしれませんが、

そういう事態に対する意見を述べるどころか、全く科学的ではない制約や措置、あるいはマスコミの論調に無批判に賛同しているのを見るにつれ、

「曲学阿世という言葉は、誠に的を得た言葉である」と残念ながら感じることが多くあります。

 昔からある言葉と言うものは、「皮肉にも真実をはっきりと言い当てているものだ」と感じざるを得ないです。

 どうかこれから学問の道を歩んでいく子どもたちは、未来へ向けて

真実をしっかり解明して、かつ、権力やマスコミなどに阿ることなく

意見を堂々と述べることのできる生き方をしてほしいと思います。

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