【助詞のニュアンス】彼に、彼の、彼を…

 わかるのに上手く説明できない「助詞のニュアンス」

 中学校の国語の文法の学習で助詞や助動詞を学習しますが、

苦手意識を持つ生徒は実に多いです。

 ただ、助詞や助動詞を使えないという訳でもありません。

たとえば、中学文法でも重要なものとして

「れる」「られる」という助動詞の用法を学習しますが

「僕はそのネコに引っかかれる」

というのが「受け身」の用法だとわからなくても

「僕はそのネコに引っかか(  )」

とあって「カッコにひらがな2文字を記入しなさい」とあれば、

「れる」という言葉を容易に記入できます。

 子どもの頃から使い慣れている言葉については、

理論より先に言い回しやニュアンスを覚えてしまうので

「体が覚えてしまう」という事になるのだと思います。

でも「これが『受け身』の用法で、その他に『可能』『尊敬』『自発』がある」なんて言われると

途端に「よく分からない」という事になってしまうようです。

「実感としてはわかるのに、上手く説明できない」という感じです。

日本語の面白さはここにある

 でも、そういう微妙な言い回しやニュアンスの違いこそが

日本語の面白さであり、魅力でもあります。

 別に英語を悪くいう訳ではありませんが

I play tennis. (私はテニスをします)という英語の一文は

誰が言ってもそのイメージはともかく、変わることなくI play tennis. です。

 ところが、これを日本語にする時には

きわめてたくさんのバリエーションの訳が可能です。

「私はテニスをします」という教科書的な訳だけでなく

「おれはテニスするよ」「ぼくはテニスをするんだよ」「おいらテニスするだ」

「わてはテニスをやる」「僕はテニスをします」「私はテニスをやるのです」等々

無限と言ってもいい程色々な訳し方が可能です。

 これは、 I という代名詞の訳し方がたくさんあるという事もありますが

助詞や助動詞で表すことのできるイメージの組合せが、極めて豊富であるということによるものではないかと思います。

 私たちは古典文学の学習をする時にも、このような助詞の使われ方や巧みな省略など、さまざまな技法による深い表現を味わうことができます。

先人たちが言葉を紡いてきた長い歴史に基づく特徴のある文化が

助詞や助動詞の世界には根付いているのです。

日本語の面白さはここにあります。

「に」と「で」の違い

 外国の方が日本語を学ぶ時に、

その用法の理解で特に悩まされるのが

「は」と「が」の違いと「に」と「で」の違いらしいです。

「は」と「が」については以前記事にしましたので

今回は「に」と「で」について書きます。

たとえば

「東京にビルを建てた」と

「東京でビルを建てた」というのでは

ずいぶんイメージが違います。

前者(に)では単にビルが建っている場所が東京ですが

後者(で)ではビルの工事が東京で行われた様子さえ目に浮かびます。

 一文字助詞が異なるだけで

このように違ったイメージになってしまうのが面白いですね。

さらに「の」なども絡めて

少し表現を変えると

様々なバリエーションの文を創り出すことが容易にできます。

真の民の声を代弁する彼に、熱い想いで未来を託す

真の民の声を代弁する彼の、熱い想いに未来を託す

 どうでしょう。

わずかに助詞が異なるだけで

「熱い想い」を持っているのが

民衆(前者)なのか

代表者(後者)なのかが

変わってしまいますね。

 英語でも、修飾語の位置を動かすことで(後置修飾)

色々な表現が可能ですが

日本語では、たったひらがな一文字で意味をがらっと変えてしまう

そこが何とも言えず魅力的です。

 短歌や俳句などのように、短文で季節や自然を詠み込む素晴らしい文化が発達してきたのも頷けるところです。

 このように

文法の勉強というのではなく「語感を楽しむ」というところから助詞を考えていくと

結構面白くなると思います。

まず理論ではなく、まず実感からスタートすれば無味乾燥な文法用語の山の中に

好奇心を見失う事もなくなるのではないでしょうか。

 日本語の面白さや奥深さということについては、今後も記事を上げて行きたいと思います。

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