【宿題の合理的なやり方】「先生のため」に宿題をやるのは楽しいですか?

宿題の意味

 学校の学習でも大人になってからの何か専門的な学習でも、宿題と言うものが出されることがよくあります。

この宿題と言うもの、なぜそれが出されるか考えてみたことがあるでしょうか?

もし学校や学びの場ですべて学習が完結できれば、それが一番簡単なのかもしれませんが、

実際には人間の記憶の仕組みでは、そんなに一度で情報をきれいにストック出来て、かつきちんと復元可能になるというものではありません。

少し経てば忘れてしまいます。

 そこで自宅に戻った後で、少し時間をおいてからもう一度やったことを見なおしたりすることが必要なのですが、なかなか自身でそれをやるのは子どもでも大人でもやれそうでやれないため、強制的な縛りをかけて見直しをできるようにするもの、それが宿題です。

時には「次回やるところを見ておいて」というような予習式の宿題もありますが、大半は復習的宿題だと思います。

しかし宿題をやる側としては、「面倒くさい」「断片的にやっても意味があるのか?」と言うような感覚も手伝って、本気になれない面もあるようです。

けれども宿題は、「この機会に復習もしてしまおう」という風にそれをうまく利用できれば

大変学習の効率を上げることができる優れたグッズだと言えます。

宿題が進まない

 この時期、学校に通っている生徒さんであれば、夏休みの宿題がたくさん出て、「早い時期にこの宿題を片付けてしまいたい」と思っている人も多いと思います。

 しかし実際には、こんな感じの状況の生徒が毎年見られます。

解き方がわからず、1~2問やってみて途中になりそのまま。

よくわからないがとにかくやろうとして、自分流のやり方で突き進む。

端からやろうとするので、なかなか進まない。

分からない問題をただ見つめるだけで、一向に進まない。

 そして時間ばかり経ってしまい、何とか早くやり遂げた生徒も、「なんだかよくわからないが完成させた」という事実だけが残り、

いったい自分は勉強をしたのか」という気分になる生徒も多いかと思います。

 しかし、実はこれにははっきりとした理由があります。

夏休みの宿題など長期休暇に出される宿題は、普段の宿題と異なり、早くても出校日・遅ければ休み明けにならないと解答書を配布しないという教師が多いからです。

 やるのはいいが、「あっているのか間違っているのか」「間違っているならどう修正すればいいのか」ということが、夏休みの後半までわからない」という妙な状況になってしまうからです。

 最近では一部の学校では、夏休みの最初に解答を配るようなところも出て来ていますが、まだそんなに多くはないように思います。

「解答書を見て狡くやるに違いない」とでも思っているのでしょうか?

解答を確認できない問題演習というものが、何の勉強にもならないことに気づかないというのもどうかと思います。

誰のための勉強か

 これは普段の学習でも同じですが、時に勉強の主体性という事が大きく問われる場面があります。

つまり「誰のために勉強をするのか」という事です。

 一つ聞きたいのですが、

たくさんの宿題を一生懸命にやるのは、「先生に良い評価をもらうため」だけが理由ですか?

今の内申点評価のシステムでは、それもかなり大切なことになってしまっているのが、元々問題を含んでいる気もしますが

根本は、そうではないはずです。

「自分自身の実力をつけるため」というのが本来の目的にならないとおかしいのです。

何よりも「先生のため」にやっている宿題は勉強としても全く面白くありません。

 全ての学習について、その本来の目的に合わせて進めていく方向で工夫をしていくべきです。

 簡単に言うと、宿題をやる場合も、「解答書を利用して自分自身の学習をする」という事が

真に宿題をやる意義のあるやり方だという事です。

 そのためにはどうしたらいいでしょうか?次のような手順でやればだいぶ状況は変わってくるのではないかと思います。

①まず解答書と、できれば何か参考になるもの、たとえば参考書や教科書をあれこれ見比べて、「どういう事を学習したのか」「どんな解法だったか」などをしっかり確認します。

②時間があればノートにまとめたりしてもいいです。時間がない場合にも、そのやり方を再現できるかどうか頭の中でいいので少しだけ覚える時間をとります。

③そしてある程度流れがわかったら、問題を解きます。

 最初から問題を楽々解けそうな場合には、最初から問題を解いてもいいですが、

自信がない場合にはこのやり方をした方が、復習をしてから確認をできるので、ずっと効率的です。

 また、答えを写すというのとは異なり、最初にインプットのやり直しをするので

最初の復習で1回目

問題を解くときに2回目

マル付けをするときに3回目

と言う形で学習を重ねることが出来ます。

 冒頭に挙げた多くの生徒がやっている悪い例では

いきなり問題練習をするのでそれが1回目のように思うかもしれませんが

訳も分からず間違えたまま解き進むので、ほぼ勉強と呼べることをしていません(0回目)

 そしてマル付けをする際も、「ああ間違っていた」「これは合っていた」と言う形だけの直しをしたり、

解答書のまま赤字で書きなぐったりする直しであれば

ほとんど学習らしい学習を自分の頭を使ってやっていないため、場合によってはこれも0回目に近くなってしまいます。

 意味も解らず問題を解き、頭を使わずマル付けをして出すとしても、おそらく時間は前者のやり方より時間は長くかかるでしょう。

手がかりがなく解いていくからです。

 だとすると、貴重な時間を費やして、勉強ではない作業をやってしまっているにほかなりません。

もっと自分に役に立つ形で、宿題をやるべきなのです。

勉強に規則は似つかわしくない。

 このような提案をすると、「答えを先に見るのはずるい」「先生に叱られる」などと心配をする方が、結構いるかと思います。

実際に学校の先生が、こういうやり方を禁じている場合もあります。

 しかし考えても見てください。

 勉強(学問)と言うものは、新しい情報を貪欲に取り込み、それを自分の頭脳を通じて咀嚼して考え方を構築していく、きわめて精神的な側面を持つものです。

その中で、少しでも合理性のあるやり方を考えていく事自体が、子どもにとってはとても重要なことだと思いませんか。

 形式的な権威主義の中では、とらわれた発想しか生まれないと思います。

キーワードは「自分自身のために勉強をやる」と言う言葉です。

貴重な時間を、形だけの儀式に奪われてはなりません。

 夏休みという長い休みに、一度、宿題のやり方について考えながら、自分の学習スタイルというものを見直すのも、お子さんにとっては必要な事だと思います。

ぜひ一度考えてみてください。

 今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。

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