【主観と仮想現実】「目を開ければ世界はそこに存在し、目を閉じれば世界は消える」

人それぞれ世界が異なる

 人間には「主観」というものがあります。何かに対する「視点」と言ってもいいかも知れません。

たとえば、雨の日がやってきてAさんが「ああ、いやだな。憂鬱だ」と感じたとして、Bさんも同じとは限りません。

「ようやく雨が降ってくれた。もっと降れ。これで作物が元気になる」とBさんは思うかも知れません。

Cさんは「これは興味深いぞ。この時期にこの気圧配置で雨がこんなに早く降るのは珍しい。よい研究材料だ」と考えるかもしれません。

 目の前にあるのは「雨が降っている」という事象ですが、それを見て考えることや感じることは人のより全く違っているのが普通です。

Aさんのように「雨は憂鬱」と感じる人も、その理由は千差万別です。

会社に行ってからタオルで拭いたり濡れているまま椅子に座ると気持ちが悪いから雨が嫌という人もいるかもしれませんが、

ずっと昔雨の日に恋人に振られてしまって、雨の日になるとそれを思い出してしまって雨が嫌という人もいるかもしれません。

あるいは雨が降ると楽しみにしていた体育の球技ができなくなって、教室での授業になるので憂鬱と考える学生もいるかもしれません。

 一つの事象を取ってさえ、とらえ方が千差万別であるならば、複数の事象どころか世の中に起こっている事象は無限と言ってもいいほどあるので、人が見ている事象の「意味」は人によりまるで違ったものであることでしょう。

人それぞれ見ている「世界」は違うのです。

「目を開ければ世界はそこに存在し、目を閉じれば世界は消える」

私たちは当たり前のことですが、眠っている時には物事を見ることができません。

「夢」という意識の表れであるものを見ていることはありますが、それ自体は現実に視覚で見えるものでないことは言うまでもありません。

だとすると私たちの主観としては「目を開ければ世界はそこに存在し、目を閉じれば世界は消える」ことになります。

私たちが見ている世界は、客観的に本当にそこに存在するのでしょうか?

昔デカルトが「我思う故に我あり」という言葉を残しましたが、私たちが知覚している対象物が本当に実在するかどうかを証明する術はありません。確実なのは私たちが「考えたり知覚をもって物事を観測している」という事だけです。

「いや、だってそこにあるミカンは現実にあるじゃないか?」という批判をされる方もいるかもしれません。

でもミカンが仮想現実の中のアイテムで、単にホログラムによってそこにあるように投影されているものであり、しかも私たちがそれを触ると触覚に実感があり、食べると体内に栄養素が蓄積されるように錯覚を起こさせる(身体自体がそもそもホログラムによって投影された幻)としたらどうでしょうか?

荒唐無稽なように思えますが、すでに仮想空間をAIなどを駆使して創り出す技術は実用化されていて、バーチャルリアリティーによって物が実際にはないのにそこにあるように見せて、触覚質感もあるように感じさせる技術もかなり高度なレベルで実現されています。

このような事も決して不可能ではないどころか、まもなく実現していまうのではないかと思われます。

だからこそ今世界中で「この世界は誰かが設定したシミュレーションに過ぎず仮想現実にすぎない」という主張がされ始めているのでしょう。

量子論的な裏付けと唯物論的手法の限界

 これだけでは、単に思い込みの域を出ないかも知れませんが、量子力学の分野でこれまでの物理学では到底考えられない事が研究の結果あきらかにされてきています。

代表的なものは「二重スリットの実験で粒子と波の二重性が明らかになったこと」「量子もつれと言う現象」などですが、これらについては別に記事を上げてありますので、興味のある方は是非お読みください。

 簡単に仕組みを説明すると、この世界はシミュレーションゲームのようになっていて、私たちが何かを見ている時だけその対象物は「物」として存在しますが(量子レベルで言えば「粒子となる」)私たちが見ていない場合にはそこには存在をしません。ただ「波」としてエネルギーを持った空間が広がっているだけということになります。

 もちろん色々な反論や異論があると思いますので、私もこれが真実に間違いないと確信をしているわけではありません。

というより従来の科学とは異なり、この世界の仕組みや人の由来や死後の世界などについては、科学の手法が通用しません。

そもそも人の認知できる範囲をはるかに超えた世界のことを考察する以上、証明という事が無理だからです。

この範囲において科学者が「それなら根拠を述べよ」と反論しているのはいささか滑稽と言えます。そのような推論・実験と観察・検証というステップはそもそも通用しないのではないかと思うからです。

 ただ目の前にある現実を徹底して観測して、そこから考えられる推論をすべて挙げて、その上で一番現実に整合性があることを選択していくという過程が、このようなジャンルでは重要な手法になってくるのではないかと思います。

唯物論的解釈には明らかに限界があるのです。

仮想現実ならもっと人生を楽しむべき

 これは前から私が主張していることですが、もしもこの世界がビッグバンから順に発展した自然にできた世界でなく、誰かが創りだしたシミュレーションゲームのような仮想現実であれば、私たちは人生をもっと楽しむべきです。

 ゲームをやる方ならお分かりかと思いますが、ある場面で何を選択して何を選択しないのかという事は、次のステップへ向けて大きな影響がありますが、意外にもその次のステップで修正をしていけば、思っていたよりずっと良い場へ移って行けることなど日常茶飯事です。

私たちは、「人生は一度きりだから、絶対に間違いのないように安全にいかないと。大変な事にならないように」というような思い込みで、日々恐る恐る生きているという面があるのではないかと思います。

 しかしもし毎日の生活が、楽しいゲームのような「選択」の連続であって、「Aを選んでも楽しいしBを選んでもきっと楽しい」と思えたりできたら、むしろ人生は好転するにちがいありません。


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