物事が上手くいかない時
私たちが日々を過ごしていて、自分の思い通りに物事が順風満帆に進んでいくという事は、おそらくそんなにはありません。
良くて半分くらいがまずまず順調、後の半分は「もう少し何とかならないかなあ」という感触で、悪ければ「あれもこれもトラブルばかり」というような事もあるでしょう。
そして人によっては「自分は何てついていないんだ」「神も仏もないものか?」と悲嘆にくれてしまうかも知れません。
でも長く生きてきてこれまでを振り返ってみると、トラブルのない時期と言うのはおそらく一度もなかったのに、現在は健康で至って幸せな毎日を送れていることに気が付きます。
仮についていない時期が長く続いたとしても、それが一生続くようなことはありません。
というよりも「ついていない」という事自体が、自分自身の主観で思っているに過ぎないという場合もよくあります。
みにくいアヒルの子は不幸?幸福?
たとえば、みにくいアヒルの子は一人だけみにくいと言われて仲間外れにされてしまいますが、客観的には彼は白鳥のひなだったわけで、ただアヒルの中に紛れ込んでいるだけです。
この状態を彼自身はとんでもない不幸ととらえていますが、それは周りが自分と違い集団の中で孤立することになったからです。
ではストーリーが終わった時に、彼が白鳥だったのは「ついていない」ことだったでしょうか?
アヒルの群れにいるときは「ついていない」と「感じた」が、白鳥の群れにいるときは「ついている」と「感じた」に違いないでしょう。
つまりすべて主観の中に幸福も不幸もあるということです。
客観の中には事実しかありません。客観的な幸福や客観的な不幸というものは存在しないのです。
ピンチと思っているだけ
私たちが日常で迎える様々なピンチについても同じことが言えます。
何か急にトラブルに巻き込まれて「さあ大変」となった時、私たちはそれを過大に不幸と感じてしまいがちです。
しかし物事を後になって振り返ってみると、多くの場合何かピンチのような出来事があって、それがきっかけで新しい展開が始まったということは実にたくさんある気がします。
少なくとも私は、「チャンスが来た時に油断していてかえってうまく行かなかったこと」と「ピンチが来たので慎重になってその後割と順調に流れていった」という記憶は、どちらも結構あるように思います。
もちろんチャンスを生かして上手く行ったこともあり、ピンチに勝てず何かを断念したこともありますが、何かを断念したことも別の道に進むきっかけになったりしていて、そういう風に考えると、やはりピンチは何かを私たちに知らせてくれているのかなと思ったりもします。
つまりチャンスは実はピンチの顔をして近づいてきているのではないかと思うのです。
「失敗は成功の始まり」という事ですね。
私たちにとって「幸運とは何か」と考えたときに、それは決して「何事もトラブルやピンチがない人生」という事ではないでしょう。
もしそうならば人生自体がまったく平坦で面白くないものになってしまいます。そういう一生を送りたいという人も稀ではないでしょうか。
トラブルやピンチを上手く乗り越えたり、それによって自分の進み方を方向転換できると思えば、チャンスは有難く、そして同時にピンチも有難いと考えることができたらいいのかも知れません。
ピンチがやってきてひとしきりショックを受けて感情を揺らしてしまっても、一旦落ち着いた後に「このピンチがやって来たのはどういう意味があるんだろう」と考えてみれば、意外に打開策は見つかります。
もしそういう思考回路で打開策を順に行っていけば、ピンチは意外にチャンスへの道を知らせてくれる「お知らせ」のようなものになるのではないかと思います。
一度考えてみることをお勧めします。