普通じゃないね
一般的な話ですが、昔は何か人と違う事をすると、「あなた普通じゃないね」という批判をされることが多かったように思います。
これは「普通」であることが価値が高いと多くの人が感じていたからだと思います。事実「普通」と言う言葉にはわりと良いイメージがあった気がします。
でも逆に最近では、みんなと同じようなありふれたことをやってばかりいると「君は普通過ぎるね」なんて言われたりします。
「普通」という言葉のイメージから、世の中が大きく変わってきたことがわかります。
とびぬけた才能や人と違った行動をすることで大活躍をする人が以前より圧倒的に多くなっており、多くの人が、「そういう特別な何かが自分にもないか」と模索を始めていると言っても良いかも知れません。
格差社会化はわりと最近始まった
ここ10年くらいいろいろなメディアで、格差社会のことが取り上げられることが多くなりました。
格差社会とは、収入や財産による階層化がされ階層間での移動が難しくなってしまった社会ですが、本当にいつの間にか我が国に格差社会が広がってしまったように感じます。
まだ昭和であった頃には、少なくとも今のような格差の感覚は全くありませんでした。多くの日本人は高度経済成長の向こうに無限の夢を描いていたような気がします。
このような変化が起こったのには政治的な背景があり、バブル崩壊以降ピラミッド型の社会がよりはっきりとした形で我が国のシステムに顕在化するようになってきたとも言われていますが、この変化は、もちろん多くの人にとって好ましい事ではありません。
なぜ高度成長が可能だったのか
日本がそんな高度成長を遂げた背景には、「一億総中流」という意識がありました。
これをバックボーンにして、資本主義の国でありながら、「世界で最も成功した社会主義国家」などと称されたこともあります。
約20年間日本の実質経済成長率は10%を超え続け、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などどアメリカの社会学者に評されました。
このようなことが可能であったのは、日本が世界に類を見ない「平等で同質な社会」であったということがその基礎にあったと言われています。
でも、それだけではなかったのではないかと思います。
議論はあるものの、対外的に経済競争に打ち勝つことができたもう一つの要因に、日本人特有の集団主義というものがあったことは否定できません。
島国であることも理由かもしれませんが、日本の社会には強い同調圧力があります。良い方向でとらえれば、このことが規律を重んじ、和を大切にする国民性を生み出してきたのだと思います。
高度経済成長の時代には、この国民性が上手く良い結果を生じさせる方向へ作用したのです。
同調圧力がマイナスに作用する
同調圧力は、社会全体がとても順調に機能している時には良い方向に作用します。
「皆と同じように頑張っていけば、明るい未来が約束されている」そんな夢のある状況では、集団のモチベーションも上がり業績をアップしていく原動力にもなり得ます。
簡単に言うと、同調圧力とは、個性に溢れて自分勝手なことをするような人を出現させない力だからです。
でも、今の格差社会の中ではどうでしょうか。
もう皆が信じていた「普通」の暮らしというものは存在しません。
たとえばアニメ「サザエさん」のような生活は、昭和の時代にはごく「普通」で身の回りにいくらでも見られるものでした。
しかし現在では、けっして「普通」ではありません。
一戸建ての持ち家に暮らし、商事会社に勤めるマスオさんが夕刻に帰宅して、いつも大家族の全員がテーブルについて家族で楽しく食事をしている
サザエさんは専業主婦で、いつも楽しそうにのんびりと家事をしている。
そんな家庭は多くの国民にとって「普通」ではなく「夢」になってしまっています。
いや「夢」どころか「どこの世界の話か?」という状況になっている気もします。
一生懸命頑張れば、皆に裕福な生活が約束されているという幸せな時代ではなくなってきているのかもしれません。
こんな時代では同調圧力と言っても、「文句を言わないで我慢しなさい」という圧力になってしまいマイナスに作用するばかりです。
普通なんて存在しない
時代が変われば環境も大きく変わります。
例えば私が大学生の頃、就職の内定が決まると、企業が他に内定を取られないように学生を海外旅行に行かせる内定拘束ということが、ごく普通に行われていました。
真偽は定かではないですが、世界一周に近い旅行をしたと言っていた知人さえいました。
この話を今の若い人にしても誰も信じてはくれません。環境が変わればもちろん価値観も変わります。年代によって物事の見方が大きく変わるのは当然です。
そして価値観がどんどん多様化するのは、これからの日本を考えると、むしろ良いことだと思います。いつまでも同調圧力に縛られていることもありません。
他人と同質な行動をすることが私たちにメリットを与えてくれる時代は終わってしまったのです。
そもそも客観的な「普通」というものは存在しません。
物事の見方が大多数の人にとって同じ場合に、その多数派の人が勝手に決める概念が「普通」だからです。
平均的な基準というものが実際にあるという思い込みこそ「普通」の正体です。
それなのに私たちが「普通」にとらわれてしまうのは、「普通じゃない」ということで集団から疎外されたくないという承認欲求がベースにあります。
でも今や集団に入っていれば必ず上手く行くとも言えない時代が到来しています。だから、そんなふわふわした形のない「普通」を頼りにして思考をしていくことはお勧めできません。
ピラミッド型社会に「普通」が生まれる。
特に日本人は上記のように、島国であることから本来そういう社会だったのか、あるいは逆に明治維新以来海外の勢力が入ってきたために、そういう性質に仕向けられたのかはわかりませんが、きわめて同調圧力が高いことが特徴とされています。
良い方向に働けばこれは大変な力になることは上述の通りですが、逆に弱点になることもあります。
階級ピラミッド型の社会を構築する際にトップの思いのままにその構成員を安定した方向に導いていくには非常に都合が良い性質が、同調圧力と言うものによって導かれるからです。
つまり「みんなと同じ」「自分は普通。大丈夫」と思わせることによって、社会的権力は安定して支配構造を強固にできるという側面があります。
格差社会になったのが直接の原因で「普通」が失われたと思っている人が多いですが、それは結果であって、実は原因ではないような気がします。
今の格差社会においても、もしそういう観念がメディアによって広められれば、非正規雇用が今の「普通」ということになるからです。
ただ今回はメディアも政治家もそれを「普通」と言わず、逆に未来の不安を延々と煽っているだけなので、日本人の全員が同じように苦しくなっていることに実感がわかないだけです。
みんな「自分だけが」大変なことになっているように思わされているだけだと思います。
恐らく社会保障のためのお金をもっともっと国民から回収しなくてはいけないから、今回は「みんな普通じゃない」と思わせているのかも知れませんね。
「普通」かどうかを考えることがそもそもの間違いの始まり
「これは普通か?」と考えることはもはやあまり意味がありません。実際は別として、おそらく現在はほとんどの人が「自分は普通以下に違いない」または「自分だけは普通以上」のどちらかで自分をイメージしているかと思います。
格差社会の進行とメディアによる将来への危機感煽りなどがそうさせてしまっているのだと思いますが、
そもそも「普通」などと言うものは幻に過ぎません。だから「普通」を基準にしている限り、自分の心は決して休まることはないのです。
何かの歌にあったような気がしますが、私たちは一人一人が全員特別です。経済面や仕事面のごく一部で他人と自分を比べる時点ですでに間違いが始まっているのだと思います。
考えてみれば、私たちはテレビや映像の中で「こんな素敵な暮らしがあります。夫は一流企業に勤めて私は高級ブランドを身に着けてショッピング」「こんな大金持ちがいます。豪邸拝見」というようなものを見せられて、漠然とステイタスや価値基準を知らない間に持たされているのかも知れません。
とにかく日本人は他人と自分を比べなくてはいられないという性質が強すぎる気がします。
しかし今後はそういう基準は大きく変わってくることが予想されます。大企業が簡単に倒産したり買収されたりリストラされたりする人々がいるかと思うと、自宅でジャージ姿のまま動画チャンネルで発信している人が、億単位のお金を手にする時代です。
上記のサザエさん一家のようなステレオタイプの「普通」の人は周りにも見当たらなくなっています。
このような時代には「普通」を価値基準の中に置くことがかえって危険になるかもしれません。
今後の社会においては、本来当たり前であった「他人の役に立つことが価値が高い」というシンプルな価値観が基準になるような気がします。
でもこれはむしろ良い方向性かも知れません。そして「これは人の役に立つことか?」といった普遍的な思考のほうがこれからはずっと大切になるでしょう。
自分が正しいと考える価値観・世界観をベースにして物事の是非を判断していくことが、今後必要になってくるのではないかと思います。
今後も皆さんのお役に立つ考え方をアップしていきます。