【阿頼耶識と集合的無意識】本当に人の深層意識はつながっているのか?

人の意識は深層でつながっている?

 最近よく人の意識について、「私たちの意識は深いところでつながっていて1つである」というような話を耳にすることがあります。

人によってはワンネスという言葉を用いて、そもそも人の存在自体が個別に分離されたものではなく、個人が存在しているというのは私たちの思い込みに過ぎないという事を言う人もいます。

 先日なかなか面白い動画を見たのですが、その中で興味深い表現がありました。

それは「自分は波だと思っていたら実は海だった」というものです。

自分が海の波だと思って「隣の波は高いな。うらやましい」「こちらの波は低いな。大したことがない」などと見ていたら、実は皆海の一部に過ぎなかったという話です。

非常に面白いと思いました。個別に分離されているというのは完全に自分の誤解だったわけですが、人の意識においても、こういう側面が実はあるのかもしれません。

これは単なるファンタジーではありません。心理学的にはこの深層でのつながりを主張する人も多く、論理的には十分ありうる話です。

阿頼耶識(あらやしき)

仏教の言葉で「阿頼耶識(あらやしき)」という言葉があります。

 これは、人が持つさまざまな表面的な知覚や世の中の現象に対する認識や意識の根底にあるといわれる識(精神活動)の事を言います。

大乗仏教に瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)という学派がありますが、阿頼耶識は元々はこの学派の主張によるもののようです。

5つの識(知覚)である 眼識、耳識、鼻識、舌識、身識 を始めとして順に→ 意識 → 末那識(まなしき) → 阿頼耶識と段々深く意識作用があるとされます(八識と呼ばれます)

 阿頼耶識は、個人存在の根本にあって通常は意識されることのないものですが、阿頼耶識に備わっている業力は、結果として現れるまでずっとその力は消えないそうです(業力不滅)

「阿頼耶」はサンスクリット語のalaya(場所)に由来しており、本来の意味は「」を表すとされています(蔵識とも言われる)

末那識(まなしき)以降が無意識の世界ですが、阿頼耶識にはすべての知識や経験が蓄えられていて、末那識より一段深い無意識であるとされます。

集合的無意識

 スイスの精神科医で心理学者のカール・グスタフ・ユングが提唱した分析心理学の概念として集合的無意識というものがあります。

人間の深層に存在する、個々人の実際の経験を越えた多くの人(最大では人類全部)に共通した先天的な精神領域で、普遍的無意識とも呼ばれます。

これは個人ごとの個人的無意識に対立する概念で、まとめると、大きく分けて人の精神領域には「意識顕在意識・consciousness)」「個人的無意識潜在意識・personal unconscious)」「集合的無意識(collective unconscious)」の3段階があるとされています。

この集合的無意識というものは、人が誰かから学んだりすることによって個人的に獲得されたものではなく、最初から備わっている(心の奥底にある?)もので、それは一度も意識(顕在化)されたこともないというのが特徴です。

人間の精神的活動がすべて大脳皮質の働きによるものであるとすると、このような集合的無意識も当然遺伝によって親から子へ伝承されたということになるでしょうが、

そうではなく無意識と言うものが他人と奥底でつながっている(いわゆるワンネス)ということであれば、遺伝ではなく元から集合的無意識部分で人は相互につながっているということになるかと思います。

阿頼耶識と集合的無意識

 阿頼耶識は仏教の言葉ですが、ユングの集合的無意識に近い概念を示すものと言えるかも知れません。

ここで微妙なのは阿頼耶識が個人の範囲にとどまる概念なのか、それとも集合的無意識のように他の人ともつながりがあるものかどうかですが、

八識の考え方とユングの意識・無意識についての発想がかなり似通っている内容であることに気づきます。

どちらの考えにおいても、実際に表面に現れている知覚や意識は、精神的作用のごく一部であってその下に非常に大きな無意識部分があるようです。

ユングの考えた意識・無意識のイメージについては「意識は氷山の海面に出ている一角であり、潜在意識はその氷山の海中部分で、海面に出ている部分より非常に大きな割合を示している」という説明がされることがあります。

 つまり結論として洋の東西を問わず「人の意識は深層でつながっている」という事は昔から言われてきたということなのです。

私はおそらくそれは真実であると考えています。

エビデンスにこだわる今の風潮への疑問

 このような「意識」と言う身近でありながら謎の多い分野について、私たちが知り尽くすにはまだまだ科学の発展を待たなくてはなりませんが、そこで留意することが1つあります。

 それはデビデンス(証拠)にこだわり過ぎると真実は見えてこないということです。

最近の社会における様々な科学的な主張を見ていると、かなり常識とはかけ離れてしまっているものが多くなっていると思われる方が結構いるのではないかと思いますが、

それは目先のエビデンスを重視し過ぎて全体像を見失っている風潮があるからだと思います。

データを上手く組み合わせて自分の都合の良い結論に持っていくなどということは、メディアの最も得意とするところですが、最近は本当に目に余ることがあります。

 たとえばどうでしょうか。「最新の望遠鏡でブラックホールの仕組みがほとんど分かった」と言われた時多くの方は、「そうか凄いな。望遠鏡でそんなことまでわかるのか?」と感動するかもしれません。

しかし誰一人ブラックホールまで行ったこともなければ、私たちはただブラックホールと言うものを想定した学問体系を作りあげて、それを前提に望遠鏡に現れるデータでそういう仕組みだと言っているのに過ぎません。

エビデンスは数値であったりしますが、それが真実を裏付けているものであるのかどうかは本当はその場所に行かなくてはわからないはずですが、それは無理なので次善の策であるはずの遠方での観測を決定的証拠のように言っているのが現実です。

 それよりも論理的な組み立てを元に「こうだからこうなるはず」と考えることが先で、その後にエビデンスを探す。もしなくても「これはまだ発見されていない」と端的に現在の状況を元に分析を進めるということが重要だと思います。

「エビデンスがないじゃないか。お話にならないね」というような姿勢では、新しい真実は永久に見つからないのではないかと思ったりします。

今後もまたこういうテーマについては時々取り上げていきたいと思います。

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