全然思いもしなかった2つの点がつながる瞬間
長く勉強を続けていると、前に勉強していたことについて
「ああ、あれはこの話とつながっていたのか」と思う瞬間があります。
その時の感動は、学習の楽しさそのものといってもいいかも知れません。
「世界の秘密を知ってしまった」
そんな気にさえなるひとときです。
儒教(儒学)についての知識を例に挙げてみましょう
儒教(儒学)は、有名な孔子の思想を基にする宗教(学問)ですが
歴史の学習では、まず5世紀頃に儒教が日本に伝来したということを学びます。
でも仏教に比べて儒教は宗教のイメージが薄く、中学生にとっては単なる暗記項目的な位置づけになってしまっていることがあるような気がします。
儒教と言うと、大人の人でも「目上を敬う教え」と単純化して理解されている方が多いのですが、
本来の儒教は目上から目下の人へ向けての徳についても述べられており、
家庭や社会生活を営む上での道徳的な考え方を、広く説いたものと言えます。
こういう内容まで丁寧に学習するともっと学習も楽しくなるのですが、あいにく学校の歴史学習ではそんな時間もないようで、
「稲作が来た」「青銅器が来た」「儒教が来た」「仏教が来た」的な
暗記だけの流れになってしまいがちで、そこが残念です。
さてその儒教ですが、しばらくして江戸時代には「朱子学」というのが登場します。
「朱子学」は「儒学」の一種ですが、大抵の生徒は「朱子学」が「儒学」とかかわりがあることに気づきません。
そもそも「儒学(儒教)」が何かも知らないのが普通という状態です。
テスト勉強などで「封建社会に適合した形になるように儒教を教えとして用いた学問を何と言うか」といった問題が出て初めて
「あっ。朱子学も儒教か」と生徒は気づきます。
ここで、前の知識と今学習している知識がつながります。
そして朱子学が、現代の「目上を敬え」というような考え方の基調になっていることを知り、頭の中でようやく色々なことが結びつき始めます。
論語が儒教だったのか!
そして今度は、国語の学習で「論語」を学ぶ機会があります。
「論語」は、儒教(儒学)の祖である孔子とその弟子の会話(問答)をまとめた書物ですが
これを学習する際に、この文に出てくる「子曰く」の「子」とは誰?という学習をしたときに
「子」は「先生」という意味で、ここでは「孔子」を指すという説明を受けます。
ここで再び儒教が出てくるのです。
さすがにこの段階になると、大抵の生徒は「ああ、あの儒教ね」という感じで、前に学習したことと今やっていることがつながる喜びを感じることが多いと思います。
そうです。「論語」は儒教の内容が書いてある書物だったのです。
なお、儒学と儒教とはほぼ同じ内容を指す言葉です。
両者は、学問的には儒学、思想的には儒教という呼び名で使い分けられているようです。
キリスト教やイスラム教のような宗教色がはっきりしている教えとは、少しニュアンスが異なりますが
行動規範的な面を多く含む学問であるため、それを信条として励行する人々が世界に多数おり
また中国では「儒家思想」として国教として扱われた時期もあります。
そういう思想的背景から儒教という呼ばれ方もされていますが
宗教というよりも、むしろ学問の流派という意味合いが強いのも事実です。
詳しく学習していくとさらに驚くべきことが・・・
さらに受験のシーズンを迎えて、生徒たちは歴史の復習を行います。
3年では公民が中心になってしまうので、歴史をもう一回しっかりやらなくてはということで
丁寧に再度歴史順に見直しをしていくのが、受験対策では普通の流れになります。
飛鳥時代のところで、聖徳太子の学習をしていると
重要なものとして「十七条の憲法」が出てきます。
受験では史料で出ることも多いので
「和を以て貴しとなす」という有名な言葉も覚えたりします。
そして、ふと説明を読むと
「この言葉は『論語』の言葉を用いたものである」
こう書いてあるではありませんか。
「何と!十七条の憲法は儒教の影響を受けて書かれたのか」
「そうすると、聖徳太子も自分と同じように「論語」を読んだのか!」
まさに鳥肌が立つ瞬間と言って良いでしょう。
学習してきたことが有機的につながり、情報の網が静かに広がっていくのを感じることができる至福の瞬間が到来します。
学習の楽しさというのは、こういうときにに享受することができるものであると思います。
「知識がつながる」と言うことは、思っている以上に感動的なことです。
皆さんもきっとそんな瞬間を、これまでに何回も経験してきていると思います。
これから学習を進めていく子どもたちには、そういう感動を大切にして学習の喜びを感じていってもらえたらと考えています。
今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。