1問に時間がかかることが問題ではない
教師が指導をしていて、やってしまいがちなミスがあります。
それは、自分の尺度で生徒の勉強量を測ってしまうというミスです。
たとえば数学が極端に苦手な生徒がいたとします。
連立方程式を解こうとしますが、
まず方程式のやり方をすっかり忘れてしまっているので、そこから教え直します。
方程式ができたら今度は加減法を教えます。
しかし加減法自体一から学習し直したらいろんなステップがあり、それを確認していくと大変な時間がかかります。
それなりにとりあえず解けたという段階で、連立方程式の計算問題1問を何とか1時間で解けたとしましょう。
実は、こういうときに教師がミスをしてしまう危険があります。
つい「今日これだけしかできなかったから、今度はもう少しできるようにしよう」と言ってしまうのです。
もし、こういうことを言ってしまうと、
その生徒のその日の学習への満足感は一気に失われてしまうことでしょう。
勉強ができる自分の尺度で生徒を見ない
教師になる人間は、普通勉強が得意かあるいは勉強が好きな人間です。
そうでなければ人に教えようとはなかなか思わないからです。
そういう人間が自分の一番得意な指導科目で指導をしているのですから、
当然連立方程式の計算なんて、
「こんな簡単な計算」という意識があります。
だから考えているのは、
連立方程式の計算などは10分くらいで一気に済ましてしまって、
むしろ文章題などへ時間を割き、
1時間の中でバラエティーのある学習をするというプランだったりします。
そういう目で生徒の学習の進みを見ていると、
どうしても
「1時間でたった計算1問か?」という気持ちになってしまうのです。
しかしそれは、数学の得意な自分を基準とした、生徒の状態を顧慮しない考え方でしかありません。
1問できることによる進歩の大きさ
連立方程式が全くわからない
いや方程式自体がよくわからない生徒が、
次々に謎だったところを教えてもらって、
全く何をやっているかわからなかった加減法も、次にできるかどうかわからないものの、
何とか手順を知ることができ、正しい数字を出すことができたときの喜びを
あなたは本当に想像できますか?
それは、方程式がスイスイとできる生徒が連立方程式の計算問題を1問解く喜びと比べて
よほど深いものに違いありません。
教師は得てして、量が消化されないと「生徒は物足りないのではないか」という意識を持ってしまいがちです。
しかし「量がこなせないこと」は必ずしも一番の問題ではありません。
「わかる喜び」を味わえるかどうかこそが、常に考えなくてはならない問題なのです。
この場合、生徒はたった1問だけしか解けなくても、自分ができなかったことをできるようになる喜びを味わうことができています。
だから、分量がこなせなくても本人の中では大躍進だったりするのです。
ここを教師が自分の尺度を基準として勘違いしてしまい、上記のようなセリフを言ってしまったら、
教師にとっても生徒にとっても不幸なことが起こります。
だから教師は自分を基準に、生徒の出来具合を判断することだけは、絶対にしてはいけないのです。
比較する対象は常に、
「その生徒の過去」と
「その生徒の今日」です。
今日の出来具合が過去のその生徒よりも勝っていれば、それは大いに喜びほめるべきことになるのです。
生徒個人個人に合わせるということの具体的な意味はそういうことなのです。
こういうのを別の言い方では絶対的評価と言いますが、
この言葉は知っていても、実際の指導でそれをしっかり意識している教師は、意外に少ない気がします。
通知表の評定をつけるときには意識しますが、肝心の指導の際にもそれを意識することはなかなかできないものです。
自分を含めた他人とその生徒の出来を比べるところから指導を始めてはいけません。
また、実際には存在しない「客観的な一般人」というような基準を想定して、
それを基準に指導を始めるのもいけません。
「目の前にいるその生徒のみ」を見つめて指導を行うことが、結局指導を成功させるための唯一の秘訣だと思います。
今後も皆さんのお役に立つ指導のコツをアップしていきます。