【気楽になる秘訣】ブッダが菩提樹の木の下で気づいたこと

サトリと木こりの話

 大変有名な話なので、聞かれたことがある方も多いかと思いますが、「サトリと木こりの話」という寓話があります。

 ある時、一人の木こりが木を切ろうとして山に斧を持って入りました。

 そこへサトリという見たこともない生き物が現れます。

木こりは「これは珍しいから生け捕りにしてやろう」と考えます。

するとサトリは木こりの心を読み

「今生け捕りにしてやろうと思っただろう」

と言います。

「こいつ心を読めるのか、驚いた」と思うと

「心が読めるとわかって驚いただろう」

と言います。

「これはいかん、斧でやっつけよう」と考えると

「今斧でやっつけようと考えただろう」

と言います。

怖くなって

「こんな奴にかかわるのはやめて無視しよう」と考えると

「無視することにしたのか」

と言います。

どうにもならないことを知って木こりは

無心になり、木を切る作業に専念し始めます。

 そして、力を入れて木を倒そうとして斧を振りおろした瞬間、

その斧の頭の部分が柄から外れてサトリの所に飛んでいき、さとりを倒してしまいました。

 この話をどうとらえるかについては、いろんな考え方があると思います。

 私はこの話は、価値判断をすることこそが人の全ての煩悩の始まりであり、

「価値判断をストップしたときに悩みというものが消える」ということを表している話だと思います。

 サトリという生き物が出てくるのは、おそらく「悟り」の言葉から来ているのだと思います。

 仏教の祖である釈迦(シャカ 本名:ゴータマ・シッダールタ 尊称はブッダ=「目覚めた人」の意味)が菩提樹の下で「悟り」を得たというのは有名な話ですが、

「悟り」とこの寓話は何か関係があるのでしょうか。

ブッダの考え方

 今回のお話は宗教としての仏教の話ではありません。

ブッダの考え方についての話です。

 ブッダの考え方はもともと宗教というよりも哲学的なものだと言われています。

 その内容については多くの研究がなされていて、学者を始めいろんな方が詳しい説明をされていますが、

 今回は、その要旨になるところを解釈してみました。

 おそらくこういうことではないかと思います。

 物事はただ存在するだけであり、どんなことも「良いこと」「悪いこと」というような色付けはされていない。

 それを人が観察をして価値判断をして「良いこと」「悪いこと」という反応をしてしまう。

 この価値判断こそが人を迷わす原因であって、仏教でいう「煩悩」とよばれるものである。

 たとえば先生が生徒に

「今のやり方だと、どこの大学も行けなくなってしまうかもしれないよ」

と言ったとします。

 生徒は当然ショックを受けます。おそらくこれは誰もが同じような感情を抱くと思います。

 でもその後のとらえ方は、人によって千差万別ではなかと思います。

A君「やばいな、無理なのか」

Bさん「何でそんな嫌なことを言うの?」

C君「オレがたるんでいるのに先生が活を入れてくれた。ありがたい」

D君「自分を目の敵にしているな、この先生」

と言った具合です。

 こういう感想を持つに至るには、それぞれが自分の価値判断をしたという事情が存在します。

 A君は「合格」という夢の実現を基準に先生の言葉をとらえていて、単に軽い注意のつもりで言った先生の発言に、不合格への不安を必要以上に読み込んでしまっています。

 Bさんは今の自分の状況の悪さを自分で知っているために、それに先生が踏み込んできたと勝手に思って、実は客観的に危険を示唆しただけなのに、強い反発を心に描いてしまっています。

 C君は、先生が指摘をしたこと以上に深い意味を先生の言葉に読み込んで、自分にとってプラスになるように意味づけをしています。

 D君は、先生の言葉の中の「今のやり方だと」という所(アドバイスの面)を敢えて受け取らないようにして、自分自身を否定されたように受け取っています。

 どうですか?

 どの生徒も事実をそのまま受け取っていませんね。

 自分の中にあるいろいろな気持ちや承認欲求、あるいは敵対心などから、皆勝手に物事に色を付けて受け取ってしまっています。

 でも実はこれは私たちが日常生活で常に行っていることです。

 価値判断をすることによって、物事がどう見えるかが変わります。

 そしてその物事への見方で、すべて世界は構築されていると言ってもよいのかもしれません。

価値判断をしないとどうなるか

 では価値判断をやめてしまうことが本当にできるのでしょうか。

物事をありのままに受け止めて、

すぐにそれに「良い」「悪い」のような判断をしないということは可能でしょうか。

 これは、やろうと思えばできるような気がします。

「今のやり方だと、どこの大学も行けなくなってしまうかもしれないよ」

と言われたときに

 「ふーん、先生はそう考えているんだな」

と言葉をそのまま受け取ればいいだけのことです。

そういう見方をすると、心を不要に揺さぶられることがないので

すぐに、

「それはどういうことだろうか」「自分は何をすればいいのか」

という建設的思考に移ることが可能となります。

 ではこれは一体どんな見方なのでしょうか?

 そうです。

 自分の主観が入っていない第三者の眼から見た見方です。

もし、こういう受け取り方ができれば、

必要以上に不安になったり、

必要以上に怒りを持ったり、

必要以上に喜んだり、

心の平穏を乱すことも少なくなるはずです。

 ブッダの言っていることはこういうことなのかもしれません。

「悟り」の真実まではわかりませんが、

「サトリと木こり」の話の「サトリ」は、

人の心を乱す煩悩なのかもしれません。

こち亀の両津勘吉みたいな生き方

 誤解を恐れずあえて言えば

 「自分でないもう一人の傍観者の視点で物事を見る」

これが気楽になる秘訣です。

言い換えれば「悟り」というのはこういうことかも知れません。

 こう書いていて

ふと思い当たったことがありました。

私が初版が出版されたときからずっと読み続けている

愛読本でもある「こち亀」(作者 秋本治氏)の両津勘吉が

こういう生き方をしているのです。

 ご存知の方も多いと思いますが

両津勘吉は下町に住む破天荒な警察官で

でたらめなことをやっては始末書を書かされてばかりの交番勤務のお巡りさんですが

人情に厚く、周りの人を明るい気持ちにさせる大変魅力的なキャラクターです。

 彼の行動を見ていると

自分の事ばかり考えているように見えて

その実他人の事をわが身のように感じて行動していることに気が付きます。

そして、自分を大切にしつつも

自分を客観的に見ていて

正に「自分でないもう一人の傍観者として自分を見る」ことが出来ているように感じました。

 作者の秋本治氏のそんなキャラクターを描く才能には本当に脱帽ですが

だからこそ

両津勘吉が魅力的なのかもしれません。

 結局、自分の事は大切であるとしても

どこかで「他人に興味を持ち、他人の為になることをしたい」

そんな気持ちが多くなって来れば

このような境地が近づいてくるのでしょう。

 逆に言えば

厳しい言い方かもしれませんが

「辛くて仕方がない」というのは

「自分の事にばかり目が向いているから」です。

自分以外の事に目を向けて夢中になっている時にこそ

人は辛さから逃れられるという面もあるのではないでしょうか。

 そして、物事について一々価値判断をして

それで心をいつも揺さぶられているのであれば、

もう価値判断をやめて、本当のありのままに物事を受け取るようにするのはどうでしょうか。

 私たちの目の前には

今まで思っていたのとは全く違った世界が

広がっていることに

気づくことができるかも知れません。

今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA