【敬語のスピリット】「とんでもございません』の誤りの指摘って必要ですか?

敬語の難しさ

 日本語の難しさを象徴するものに、敬語というものがあります。

外国人の方が日本語を学習する際に、とても悩まれるのはこれです。

また、学校で習ってもなかなかマスターしにくいものでもあります。

 ただ実社会では、子どもたちが想像している以上に敬語は重要で

敬語が上手く使えないために、恥ずかしい思いをする事もあるのはもちろん、

接客や営業、あるいは司会やスピーチなどでの敬語の誤りは、致命的な失敗とされる事もあり、

ヘタをすると、仕事を失うような事さえ起こり得ます。

敬語は難しいのに、日本で社会生活をするためには、21世紀の現代でも、極めて重要なアイテムなのです。

敬語の誤り

 敬語は、一通り学校で勉強したくらいでは、およそ一人前とも言えません。

基本の基本がようやくわかるくらいでしょう。

実際には、社会で身をもって覚えていくという人が多いかも知れません。

 ところが厄介なのは、実社会で皆が正しい敬語を使っているかと言うと、そうでもないという事です。

 有名な二重敬語(「おっしゃられる」や「拝見いたしました」など)などを話している人を目にするのなんて、ごくありふれた風景です。

*正しくは「おっしゃる」「拝見しました」

だからテレビでもネットでも、「その敬語、間違いです」みたいな特集が流行るのでしょう。

間違いを指摘する?

 しかし、ここもまた興味深い所で、

敬語の間違いは上司には指摘される事はあっても、それ以外で指摘される事は実はあまりありません。

『自粛の文化」と言われてしまう事も多い我が国の文化においては

他人に何か言われたらお終いで、その前に自ら正していくと言う感覚が広く浸透しています。

 だから取引先の人が「おや?」という顔をして

上司に帰り際に「今日は君のせいで恥をかいたよ」なんて言われるのが

社会人としては最悪のパターンだと思い込んでしまっているのです。

 だから面と向かって間違いの指摘というのは、なかなかないのですが

テレビやネットでは盛んに間違いの列挙が、微に入り細を穿ち行われています。

敬語のスピリット

 しかしどうでしょうか。

そもそも敬語はなぜ我が国で、こんなにも長きにわたり流行したのでしょう。

 それは私たちに、『相手を尊重して敬うという文化」が深く根付いているからではないでしょうか。

何も相手が大企業の会長でなくても、私たちは対外的にごく普通に尊敬語を使います。

となりのおじさんに対しても、普通に敬語を使います。

それは身分によるというより、むしろ人として互いに尊敬しあい畏敬の念を持って暮らしているからではありませんか?

「余所者は敵」「まず銃で威嚇して」なんて文化ではないのです。

「武士は相身互い」「お互い様」というような考えをする民族だと言えるでしょう。

 だから、ちょっとした思いやりと敬語の文化を切り離して考える事はできないと、私は思います。

 敬語のスピリットと言うべき核心は、

古くからあるものでありながら、固陋な「身分意識」などにあるのではなく、

実は相手を不快にしないように慮る「思いやり」にこそあると考えます。

正しくない敬語も相手を幸せにする

 たとえば、何か相手が自分に対して手間をかけたときに労いの言葉をくれるとします。

「今回は山田さんには本当に何回も足を運んでもらって悪かったね」

と言われて

「とんでもございません」「私の事などお気になさらずに」「当たり前の事ですから」

と言って、あなたは心から感謝して心から「ありがとうございます」を言います。

相手に対する感謝の気持ちと、良い仕事をした満足感と幸せでいっぱいになります。

 そんなあなたに

「『とんでもございません』は敬語としては間違いですよ。『とんでもない』は形容詞として一語だから、その一部の『ない』をこのように活用できません」

そんな事言われたらどうでしょうか?

私なら躊躇なく「この馬鹿やろう」と言います。幸せムードが台無しですよね。

 実はこの「とんでもございません』が誤用である事は、以前は問題視されていたのです。

平成19年に文化審議会が敬語の指針を検証する中で、現代ではこのような用法も使われることに問題がないという趣旨を出していますが

私はそれ以前に

皆が相手に対して思いやりを示すために、少し過剰に丁寧な言い回しをする事は、

人と人の距離感をつかみにくい現代だからこそ、よくある事であって

それを「間違い」だからと批評していく方向性はどうかなと感じでしまいます。

 普通の感覚では

「とんでもございません」からは、

丁寧すぎるものの「相手へのとても優しい心遣い」が感じ取られます。

「使っても問題がない」じゃなく

新しい「思いやり言葉』であって、何も問題がない気がします。

誰も嫌な気持ちになどならないのですから。

 敬語から若者が離れていく理由があるとすれば、こう言う重箱の隅をつつくような形式主義にこそ、むしろ問題があるのではないかと思います。

こんな事を議論しているから、敬語を嫌いになる人も増えるのではないかと、個人的には感じます。

「言葉は実際にそれを使う人が幸せになるためにある」

私はそう思います。

 

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