【不思議な記憶】「そんな人いないよ」

あれっ。こんなに狭かったかな?

 学習や仕事において、記憶が重要な役割を果たすのは、言うまでもありませんが

記憶というものが不思議であることも、また皆さんがご存知の事だと思います。

 ある時、私が幼少期に住んでいた所に、訪問する機会がありました。

ほぼ50年近く訪れる事のなかった場所への訪問です。

だから、今からもう50年も前の記憶になりますが、

その風景は、何か事あるごとに記憶の中に浮かんでくる自分の中での原風景のようなもので

「あそこの角を曲がるとブロック塀があって」

「あの倉庫の向かいには大根の畑があって」

「ここの細い道を通り抜けると城山さんの家があり…」という感じで生き生きと脳裏によみがえる、そんな景色の場所でした。

しかし実際に訪れてみると、色々驚く事がありました。

 もちろん、これだけ時間が経過しているので建物はすっかり建て替わっていましたが

道を歩いていくとおぼろげながら、当時の風景とリンクできるものがあり、記憶と結びついていました。

 「ああ、ここだ」

ようやく位置がはっきりわかると、なつかしさがこみあげてきました。

 ところが、ふとあることに気づいたのです。

それは「実際の場所が、記憶の中の風景よりずっとずっと狭い」という事です。

言ってみれば、実際に目にしたサイズが、思っていたのと比べて半分以下の感覚なのです。

 当然と言えば当然で、自分がこの場所に暮らしていたのはまだ5歳くらいの頃ですから

その年齢の子どもの目で見ている景色は、サイズが違っていて当たり前だったのです。

「なるほど」と妙に納得をしてしまいました。

記憶は、あくまで主観の中に存在するという事でしょう。

そんな人いないよ

 ある時友人たちと話をしていて

「あの頃、引っ越してきて半年後くらいに引っ越して行った同級生がいたよね」

そんなことを私が言ったら、回りが口々に

「そんな人いないよ。何言ってるの」

と否定されたことがありました。

自分の中では確かに、そういう友人がいた気がしていたのですが

周りの話を総合すると、そういう事実は本当に実際になかったようです。

 そして、その後不思議に思ってずっと気にしていました。

何かオカルトめいている話でもあるので、

「皆SFのように記憶を消されているのではないか」と思ったりもしました。

 しかし、この話には実はタネがありました。

テレビドラマで半年だけ引っ越してきてクラスメートになった生徒がいたのに、

主人公が、どうしてもそれを思い出せないというストーリーだったと思いますが

そんな話があって、ちょうどその頃何回も繰り返してそれを見ていたのです。

友人たちとの会話の後、そのドラマを再度見た時に「ああ、これだ」と気づきました。

私は記憶には割と自信がある方でしたので、この一件には自分でも大変驚きました。

記憶が、完全に別の話と混乱してしまっているということ

しかも現実の話ではなく、架空の話と現実が区別できていなくなっているという訳で

そんな事もあるのかとびっくりしたのでした。

だからと言って私がボケ始めた兆候はありません。

その話だけ完全に勘違いして、思い込んでいたのです。

記憶の本当の姿

 私たちは記憶というと、客観的な事実に基づく映像や画像がストックされているようについ考えてしまいますが

実は、全く違います。

これは脳科学の研究でも言われている事なのですが、

記憶は、断片的なピースの形で頭の中にバラバラに入っていて

それを復元時に、主観的に人が任意に組み合わせて思い出すようです。

 だから、私たちが普段「記憶」と呼んでいるものは、客観的な事実とはかなり違った姿をしていると言っていいのです。

 冒頭の例で言えば、幼少時の風景それぞれは、現実を映し出したものであるとしても

それを組み合わせるのは、自分の主観であるため、自分の中に、その地域のそのゾーンが展開されていても

それは現実とは全く異なる、自分だけの「故郷」だったわけです。

 そして引っ越した友人の例で言えば、

現実と似たテレビの映像やストーリーを本当の自分の過去の中に入れ込んでしまったのも

記憶というものが、「過去の学校の映像」

「友人たち」「ドラマの学校の映像」

「ドラマの中の友人たち」「転校生」

そんなバラバラの情報を自分の中で再構築しているからこそ、起こった出来事だと言えるでしょう。

記憶というものを知り,それを生かす

 記憶というのは、このように自分の頭の中にありながら、自分でもよくわからない部分があるものだと言えます。

 だとすると、学習や仕事における記憶においても、それを前提とした工夫があるに違いありません。

パソコンの情報データのように、整然とメモリーが並んでいるのではなく

空中に風船のように、記憶のパーツがぷかぷかと浮いていて、それを必要に応じて引っ張って来るそんなイメージだと思いますが

 そのような事も一つ事実として、念頭に置いておくことも必要かもしれません。

 一つ言えることは、記憶がこのようなものであるとすれば

自分にプラスに記憶をまとめ上げたとしても、何も問題はないという事です。

 他人は何とも思っていないのに

自分を卑下したり、「自分はあの時大失敗をした」と思ったりすることは、恐らく誰でもあると思いますが

 実は他人はほとんど興味もなく、そんなことは何も覚えていないというのが実際です。

ごく近い間柄同士でなければ、否ごく近い間柄でも

人は自分の事で精一杯で、他人の過去のことなどは記憶する余裕がないのが普通だからです。

 私も、ある時したスピーチが大失敗だと自分で思っていて、それを後に周囲に話したところ、

「それ、あの時の良いスピーチの事?」

「そうそう、あの話良かったよね」

そんな事を言われて、非常に驚いた経験があります。

人の主観だらけの記憶と真実は相当異なっている事が多いようです。

だから、逆に言えば、すべてを自分の良い思い出にしてしまっても、本当に不都合はないのです。

そのことで日々のメンタルをプラスにしていく事は、実際かなり役に立つものです。

 何か過去の事で後悔をしていることや

「あの時ああしていれば」と思っていることがあるとしたら

一度それが本当に後悔するべきことだったのか

「そうしなかったからこそ良かったこと」が実はないかどうか

もう一度思い出してみてもいいかも知れません。

今後も記憶を上手く利用する方法については

具体的にまた記事をアップしていきたいと思います。

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