【identity】「テセウスの船」のパラドックスと人間の同一性の関係とは?

同一性

 私たち人間一人一人は、もちろん「山田君」「藤木さん」というように個人個人を特定することが可能で、

同姓同名の人がいても、「世界に同じ人間など存在しない」ということはわかりきった真実です。

 しかし、それはあくまで私たちが普段暮らしているマクロの物質世界での事で、ミクロの世界においては、決して簡単な話ではなくなります。

というのは、私たちの体を構成している細胞は、およそ100日程度ですべてが入れ替わると言われていて、およそ30兆個の細胞が1年もたてば全く以前とは異なっている状態になっているから、

物質面だけで言えば、人体のあらゆる部位は1年前の自分とは別人とも言えるからです。

テセウスの船のパラドックス

 このことに関して、有名なテセウスの船のパラドックスという話があります。

 この言葉は有名なテレビドラマのタイトルになっていることからご存じの方も多いのではないでしょうか。

 ドラマの「テセウスの船」も、何回も過去に戻ってやり直しをして、自分の父や自分自身の周りの世界が変わってしまっても「同一性があるのか」というような意味があったのではないかと密かに思っています。

 もちろんこれは一視聴者の感想に過ぎません。ドラマ制作の趣旨にご興味のある方はネットでご確認ください。ネタバレにもなってしまうのでこれ以上の詳説は避けておきます。

 本来のテセウスの船のパラドックスは、帝政ローマ時代のギリシア人の著述家であるプルタルコスによる思考実験です。これとは別にいくつかの派生した例もあるようですが、元の話はこんな内容です。

テセウスという人物がクレタ島から帰ってきたが、アテネの人々は長くこの船を保存していた。しかし木材はやがて朽ちてしまうので、徐々に新たな木材に取り換えられていった。そして遂に最初の船を構成していた木材はすべて無くなって置き換えられてしまった。果たして「この船は本当にテセウスの船と言っても良いのだろうか」というものです。

まあ一言感想を言えば「同じ船に決まってるでしょ」という事になりますが、

「じゃあ『同じ』ってどういう事?」と言う話になるわけです。

「同じ」ということの意味

 ここでこのテーマにおける「同じ」の定義については、「質的な同じ」と「数的な同じ」があるとされています。

 たとえば、全く同じに見える工場で製造された野球のボールが2個あった場合に、2つは質的には同じです。材質や作った過程の精密さにより、おそらく現在ではほぼ100%完全に同じ構成要素の物質ができるのではないかと思います。

 しかし数的には同じではないと言われます。簡単に言うと1個の物質ではないということです。「1つのボール」「別の1つのボール」という話ですね。

 テセウスの船の場合は、これらの2つの同じをどの程度厳密に考えるかによって結論が変わるかとは思いますが、

あくまで私の考えですが、ある程度概括的に観察した場合、船という同質の物であるということを重視すれば質的には同じですが、時代を隔てて別物(壊れたり作り直したりをした結果として同一に見えるものがある)という点を考えれば数的には同じではないという話になるでしょう。

 でも船のような乗り物は、「船の名前」というものにアイデンティティを代表する要素が詰められているため、私たちの一般感覚では船名が同じ(テセウスの船)であれば、それは「同じ船」という意識で見るという習慣になっていることは確かです。

人体はどうか?

 人体については上述の通り100日で細胞が入れ替わるとしても、動的な平衡が保たれる仕組み(ターンオーバー)があるので、見た目は全く同じ個体であって何ら違和感がありません。

そこが人体の凄いところでもあるわけですが、船以上に中身が入れ替わってもその人が同じ人であることは、強く結論付けられるところでしょう。

つまりテセウスさんの船は若干「同じ船」ではないとも言えそうですが、テセウスさんの体は一般の意識で見えれば、かなり強固な論拠をもって「同じ体」と言えそうです。

ただ最近の量子力学の研究によって、その論拠が少し薄れ始めている要素もあるかもしれません。

 私たちの体の細胞を更にミクロの世界にまでさかのぼってみていくと、それは原子からできていて、さらにさかのぼれば原子核と電子、さらにさかのぼればクオークなどの素粒子、もっと進めば、超弦理論による「ひも」がすべて世界を形作っているということが明らかになってきています。

 この理論で考えた場合には、人体もその外部の空気や他人も、実は同じ構成要素でできていて、それらの組み合わせが変わっているに過ぎないということになります。

わかりやすく言えば、サラダを食べて消化されてそれが自分の体を構成するようになったら、自分の中には野菜を構成する物質が構成要素として入ってくるわけで、

そういった過去に食べた物の集大成が自分の今の肉体ということを考えれば、私たちの体と言うものは、まるで川の流れのように刻々と内容を変え続けている流動的な存在だということに気づきます。

 それを含めて「同じ」という事を私たちは「意識」しているに過ぎません。

という事は、私たちのアイデンティティ(identity)というものは、「意識」によって多細胞のそれぞれの構成要素が刻々と変化するその大きな集合体を、あたかも1つの存在のようにまとめて「自分の体」だと思い込んでいるだけなのかも知れません。

極論すれば、変化と動的平衡による見せかけが、ニュートン物理学の適用範囲である物理世界において明白なものに見えているため、私たちは、私たち自身が1つの独立した存在である個体だと誤解しているという可能性があるとも言えるのでないでしょうか?

 人体と言う自分に最も身近な存在でさえ、私たちにはわかっていないことだらけであるというのは、何だかこの先の発見に向けてワクワクするような気もしますね。

今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。

 

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