【主観的幸福の意味】「雨の日は誰もが嫌に決まっている」それって本当ですか?

誰もが主観の中で生きている

 私たちは誰もが主観的な意識の中で生きているので、「きっとこうに違いない」と思っていることがたくさんあります。

それは仕方がない事で、「他人の身になって考えてみなさい」というような教育を受けても、実際に自分は他人にはなりきれず、あくまで想像するしかないため完全には無理なのかもしれません。

 たとえば大けがをして入院している人を、テレビでドラマ仕立てで痛々しく放映しているのを見て、人々は「ああけがが辛いだろう。痛いだろうな」と想像してしまいますが、

当の本人はけが自体のつらさなどは大した事がなくて「仕事を休んでいてリストラになったらどうしよう」と、そればかり考えているかも知れません。

人の気持ちや心の中は、テレビで流しているようなステレオタイプの思考では到底推し量ることなどはできないのです。

 ある人は「雨の日は誰もが嫌に決まっている」と言いました。

さて、あなたはどう思いますか?

本当に皆そうだと思いますか?

雨の日が好き

 多くの人が晴れの日を好みます。でも実は「雨の日が好き」と言う人は、世の中に結構な割合でいるというのが正解です。

 有名なユーチューブ講演家の鴨頭嘉人氏の話の一つに、「晴れも好きだけど雨も好き」という話があります。

野球部の部活をやっていたため、雨で屋外の練習がなくなるとホッとしたという記憶から、雨も好きというような話だったと思いますが、

 これを聞いた時、私も全く同じでびっくりしたのを覚えています。

私の場合は陸上部で、雨が降ると基本的には屋内でのサーキットトレーニングになって、激しい練習が少し楽になるのでホッとして、

 その記憶のせいか他人より雨の日が好きで、人に驚かれることもあったのです。

ただ私の周りの人の感想を聞いただけでも、「雨の日が好き」「雨の日は楽しい」という事を言う人は割といます。

すべては考え方次第

 以前「世界を創造しているのは自分だ」という内容の記事を上げたことがありますが、

「すべては自分の考え方次第」というのは、やはりその通りだと思います。

鴨頭氏の言うように「晴れの日もいいし」「雨の日もいい」という気持ちでいれば

毎日が「最高の日」ということになるでしょう。

 私たちは大なり小なり色々なトラブルに日々巻き込まれて生活をしています。

何かある度に「ああこれは大変」「今日は何ていう一日だ」「自分にばかり災難が起きる」

そんなことを考えていれば、毎日は「最悪の日」になってしまうかもしれませんが

「大事にならなくて良かった」「気をつけなくてはいけないということかな」

「こんな軽傷で済んで良かった」と思えば「運の良い一日」だったということになるでしょう。

幸福は100%主観の中にある

 いつだったか「幸福は100%主観の中にある」という事を誰かが言っていたのを聞きました。

本に書かれている内容だったかも知れません。

 私は、まさにその通りだと思いました。

物事には色はなくそれを青色に見るのも、赤色に見るのも、すべての事は自分の考え方や見方にあるということでしょう。

 でもこれだけだと、分かりにくいかもしれません。

「客観的な幸福は、本人の中に存在しない」と言えばもっとわかり易いかも知れませんね。

「スターである」「お金持ちである」「誰もがうらやむ美男美女である」

 どうでしょうか。

報道やネットを見ていて、そういう人の中にも、毎日色々なことで「大変そうだな」と思った人はいませんか?

 まあ、それこそ他人からは計り知れませんが、毎日マスコミにあれこれ言われる毎日がうらやましいとは思えない人も多いと思います。

 オタクと言われる人が、実は自分の好きなことに没頭していて心安らかな毎日を送り

 俗にリア充と言われる人が、他人に見栄を張る毎日に疲れて他人の事ばかり気になって、心休まることがない

なんてこともあるかも知れません。

 外から見たその人の幸福は、あくまでも「他人から見た」幸福に過ぎないのです。

だから「客観的な幸福は、少なくとも本人の中には存在しない」と言っても良いでしょう。

自分の中で「ああ、こんな状況で最高だ!」と思えて初めて客観的な満足度が主観的にも幸福感をもたらすのです。

 だとすると、結論は明らかですね。

簡単な事ではないかも知れませんが、自分の考え方ひとつで幸福は、いつでも手に入るという事ではないでしょうか。

 ドイツの詩人カールブッセの有名な詩は、この真実を私たちに伝えています。

山のあなたの空遠く『幸い』住むと人の言う。ああ、われ人ととめゆきて、涙さしぐみ、帰り来ぬ。山のあなたになお遠く『幸い』住むと人の言う。」 *上田敏氏の有名な訳を元に口語に直して表記してあります。

「山のずっと彼方に行けば、幸福になれる理想の場所があると人は言う。ああ、私は他人とそこを訪れようとしたが、希望した幸福は得られず、涙を流して帰って来るしかなかった。 山のずっと彼方のさらになお遠くに行けば、その場所はあると人は言うのだが」といった意味の詩です。

 幸せは実は身近な所、本当に身近も身近な私たちの心の中にあったというのが、この話のオチになります。

私はどちらかと言うと子どもの頃から対外的な見栄を張る傾向があって、「客観的幸福」というものがあると信じ込んでいたタイプでした。

私だけでなく、これまでの世の中というものは、メディアが人々の欲求や虚栄心をあおりまくっているので、このような「客観的幸福」があると多くの人々が信じ込まされてきたように思います。

「芸能人豪邸訪問」みたいな番組はまさにその象徴でしょう。

 しかしこれまでそういう番組(今は全く見ませんが)を見て来た感想として、

豪邸に住んで笑顔でインタビューを受けていた人が、ある日破産したり、スキャンダルの大騒ぎでその豪邸をテレビ局に囲まれたりという風景を結構見たので、

「メディアにいい様にされてしまっていて、これは大変そう」と思ったりしました。

もちろんそんな例はごく一例でしょうが、「一体自分は何がうれしいのか?楽しいのか?」ということは、よく考えていかないといけませんね。

人生はそんなに長くはないのですから。

人に「客観的幸福」はありません。それは他人の感想に過ぎません。

人にあるのはただ「主観的幸福」だけです。これは間違いありません。

今後も皆さんのお役に立つお話をアップしていきます。


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