【万葉と富士山】今も昔も畏敬すべき「大和の国の鎮めとも 座ます神かも 宝ともなれる山かも 駿河なる不尽・・・」 

富士山を詠んだ歌の発表

 万葉集についてはこのブログでもたびたび触れてきました。

そして、私が渥美半島万葉の会に参加させていただいている事も以前記事を書きましたが、先月12月の例会で富士山に関する歌について発表をさせていただく機会がありました。

 また、たまたま年が明けてから富士山に行く機会があったので、「今年は富士山でスタートか」かという事を感じたりしました。

そこで、今回から何回かに分けて、そのとき発表した富士山の歌と共に冬の素敵な富士山の景色などをこのブログでもご紹介したいと思います。

富士の歌

 さて、その富士山を詠んだ歌の話になります。

 万葉集は雄大な風景を描いている歌が多いので、富士山の歌もたくさんあると思ってしまいがちですが、実は意外に少なくて 十一首だけしかありません。

その中で一番有名なのは、皆さんもご存じで教科書とかにも出てくるこの山部赤人の歌かと思います。

田子の浦ゆ うち出でてみれば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける 
「田子の浦を通って、眺望が開けた場所に出てみると、真っ白に富士の高嶺に雪が降っていることだ」

この代表的な歌は富士山を見る人の視点からその素晴らしさを見事に表現した歌と言えますが、
他にも富士山の情景や富士に対する畏敬の念を歌った歌がいくつかあります。

今回はその1つをご紹介します。

不尽(富士)の山を詠む歌一首 并び(ならび)に短歌

なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と  こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不尽の高嶺は
天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 雪もち消ち
降る雪を 火もち消ちつつ 
言ひも得ず 名付けも知らず くすしくも 座(い)ます神かも 
石花(せ)の海と 名付けてあるも その山の 堤(つつ)める海そ 
不尽川と 人の渡るも その山の 水の激ちそ 
日本の 大和の国の  鎮(しづ)めとも 座(い)ます神かも 宝とも なれる山かも
 駿河なる 不尽の高嶺は 見れど飽かぬかも 
  高橋虫麻呂 (たかはしのむしまろ)

「甲斐の国、駿河の国と、あちこちの国の中心にそびえ立っている富士山は、
雲も行くことを遠慮して、鳥も上ってゆくことができず、(噴火で)燃える火を雪で消し、
降る雪を火で消してしまいます。
言葉では言い尽くせず、名づけようもなく、不思議にもいらっしゃる神(神の山)なのです。
石花(せ)の海と名付けてある湖も、富士山がつつんでいる湖です。
富士川と言って人の渡る川も、富士山の水がたぎり落ちたものです。
日の本の大和の国をを鎮めていらっしゃる神(神の山)なのです。宝の山なのです。
駿河の国の富士の高嶺は、どんなに見ていても飽きることがありません」

 少しそのままだと難しい部分もあるので、詳しい説明も書いておきます。

*詳しい説明
「そ」 「~な」を意味する終助詞 
「なまよみの」甲斐の国の枕詞
「うち寄(よ)する」駿河の枕詞
「い行きはばかり」い」は「行き」の強調で「行くことを遠慮して」
「こちごちの」は「此方此方」あちこち、そこかしこ
「くすしくも」は奇しくも(くしくも)と同じ意味
「不思議にも神かも」 神(神のいる山)だなあ(詠嘆)
「石花(せ)の海」富士山の山梨県側にあった湖で864年の噴火で現在の精進湖と西湖に分かれたそうです。
「水の激ち(たぎち)」水が激しく落ち

今も昔も畏敬の念の対象になる山が富士山

 この歌を初めて知った時、自分が初めて富士山を見たときの感動を歌にするとちょうどこんな感じだったなと思いました。

もちろん当時の自分は詳しい知識などはありませんので、こんな歌は歌えませんが、よくわからないままでも、富士山の壮大な姿を見たときの感動から、それに対する何か不思議な畏敬の念を言葉にしていくと、こういう歌になるのではないか、そんな感想を持たせる素晴らしい歌だと思います。

 自分の郷土や国を愛する気持ちというものは、こういう素朴な山に対する畏敬の念のようなところから実は感じ取られていくものなのかも知れません。

普段はそんなことを意識していなくても、なぜか富士山を見ると、自分は日本に生まれて育ち生きてきて幸せだったという気持ちになる人は多いと思います。

本当に不思議な山が私たちの富士山なのです。

今年皆さんもぜひ行ってみてください。きっと新しい発見があると思います。

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