【伝道師パウロ】人は変わる!「目から鱗(うろこ)が落ちる」お話

目から鱗(うろこ)が落ちる

 私たちは「目から鱗が落ちたようだ」という言葉を耳にすることがあります。

その意味は割の多くの人が良く知っているかと思いますが、それまでよくわからなかったことが何かの出来事によったり視点を変えた事によって、すっきりとわかるようになる事を言います。

 「この機械の操作法が良くわからないまま使っていたが、あなたの説明ですべてわかりました。目から鱗が落ちたようです」というような感じで使われます。

でも「目から鱗が落ちる」という言葉、よく考えると変なシチュエーションですよね。

「目に鱗がくっついていたのだろうか?」「鱗を目に付ける習慣があったのかな?」

鱗が落ちて視界が開けてよく目が見えるようになるというのは理解ができるし、とても分かりやすいのですが、なぜこういう表現ができたのかについては興味があるところです。

 実はこの言葉は聖書から来た言葉でした。

The scales fall from one’s eyes.

 この言葉の由来は、新約聖書の使徒言行録(使徒行伝)第9章にあります。

原文では The scales fall from one’s eyes.となっています。

scaleは「鱗」や「鱗片」あるいは「人の目を曇らせるもの」という意味があります。

良く知られているscaleの意味としては「目盛り」や「縮尺」などがありますが、実はこんな意味もあるのです。

使徒言行録はキリスト教の始まりの時期の様子が描かれたもので、とりわけ有名な2人の使徒であるペトロとパウロの活躍が多く描かれています。使徒と言うのはイエスの直接の弟子たち(高弟たち)の事で、彼らはキリスト教の初期に重要な宣教活動を行いました。

 中でもパウロは「キリスト教最大の伝道者」と言われていた人物です。最初は厳格なユダヤ教信徒でイエスを迫害する立場にいましたが、のちに劇的にその考えを変えてキリスト教へと改宗をしました。

ヘブライ語での呼び名は「サウロ」でしたが、布教活動をするようになりギリシャ名の「パウロを名乗るようになりました。

目から鱗の逸話

 サウロ(のちのパウロ)はキリスト教徒を迫害するためダマスコという所へ向かっている時、その当時の一番の敵であるイエスに出会います。

聖書によると光と共に現れたイエスが、サウロに「なぜ自分を迫害するのか」ということを尋ねた後、サウロにダマスコで待つように言って立ち去ったところ、サウロの目が全く見えなくなってしまっていて、食事すらできなくなってしまったが、キリスト教徒アナニアという人物をイエスが遣わして彼の目を直したとあります。

アナニアが、サウロの頭の上に手を置くと急に目が見えるようになったのです。

 そして、その時に述べた言葉が「目から鱗が落ちたようだ」と言うものだったと言われています。以降サウロはパウロとして、熱心な信仰者になり布教活動を熱心にしたとされます。

 本当に光があったのかどうかはわかりませんし、なぜ目が見えるようになったのかも定かではないですが、一つにはそれまで悪だと思い込んでいたイエスの教えが人々を真に救済することにパウロが気づいたということを物語風にしたものという事が考えられます。

これが一番現実的な解釈のような気がしますが、イエスには超常的な能力が備わっていたという説もあるので、本当に光を浴びさせて真実を見つめさせたのかも知れません。

いずれにしても、人は誰でも思い込みを頻繁にしてしまう生き物であり、先入観で物事を見てしまうことが本当に多いと思います。

この逸話は、イエスの強力な迫害者のサウロが、イエスの最大の協力者パウロになってしまったという事でそういう思い込みや先入観が改められたという大変劇的な話で興味深いです。

まさに「目から鱗が落ちて」別の世界が見えてきたという最大の例でもあると言えますね。

 私たちが良く知っている言葉にはこのように歴史やストーリーがあって現在に伝えられてきたものが多いです。とても面白いですね。

今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。

 

 

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