【なぜ科学が停滞するのか】科学の進歩に本当に必要なのは「エビデンス(証拠)」より「自由なアイディア(発想)」

エビデンスがなければ事実は存在しないのか?

 私は長く司法試験受験生をやっていたので、法律学という社会科学については、その意味を深く考える機会が一般の方より多くあったように思います。

社会科学は自然科学と大きく違う事は、絶対的な正解と言うものがないという点です。

たとえば自然科学において、水が100℃で沸騰するという事実は、特別な例外を除いては絶対的に真実であって実験で立証できることです。そこで「水」は誰が見ても「水」であり「沸騰」についても具体的な基準を立てれば、誰がみても「沸騰」だと判定できます。

しかしAさんの行動が、法律の条文の「横領した」という文言に当たるかどうかは、文言の解釈とAさんの実際の主観客観両面を柔軟に判断しないと判定できません。

「横領」の文言だけでは漠然としているので「不法領得の意思」とかさまざまな要素を加味して判断するのが普通です。

でも実際の刑事手続きで検察官から「こういうことだから有罪」と軽々と主張されてはたまりませんので、必ず証拠主義によって証拠をしっかり認定しなくては、有罪にすることができません。

今話題の「因果関係」についても然りです。有罪を導くための因果関係の認定については、古くは相当因果関係説から始まり各種客観節主観説がたくさん主張されて論じ続けられています。人を犯罪者にするのですから当然の縛りです。

 少しおかしいと思うのは、国民の生命や健康を守るはずの厚労省が、昨今健康被害についての因果関係について「ありとはいえない」と明らかに刑法の因果関係理論を超えるような厳しい判定を続けていることです。

まあ明らかに政治的な影響によるものでしょうが、国の機関がそういうことを平気でするようになっていることには大きな疑問があります。

 話が少しそれました。言いたかったのは社会科学と自然科学の違いです。

このように社会科学というのは「人々の人権や利益を守る」という最大の価値目標があるので、そこからエビデンスや因果関係の認定などをする強い必要性が出てくるものと言えます。

 これに対して絶対的な事実を確定しなくてはいけない自然科学ではどうでしょうか?

もちろん自然科学においても、刑法ほどでないにしてもエビデンスは重要です。多くの場合実験や論理的整合性などによってそれはもたらされるでしょう。

でもエビデンスは「対象となる事柄についてそれが本当の事なのか」を確定するという意味合いのみにとどまります。よく似ていてもたとえばその隣にある別の事柄の証明にはなりません。

また「水」が100℃で沸騰することのエビデンスが確保されなかったとしても、それはいわゆる間違った理論であるだけで、工場でそれに施設などを作り投資している人たちがいれば損害を生むでしょうが、直ちに多くの人が困るわけではありません。

 にもかかわらず実際の世の中では、自然科学においてエビデンスがないと「その事実自体が存在しない」という思考がされているように感じます。

これは科学の進歩にとっては大変良くない傾向であると思います。

新しい発想に基づいて「こんなことがあるのじゃないか」と考えた研究者が「そんなことはこれまでに聞いたことがない。エビデンスがあるのか」と言われて、学説を主張していくことができなければ、科学の進歩などはあり得ないからです。

新しい考えや人と違う考え方は陰謀論

 最近のメディアのやり方として「陰謀論」という言葉で、有名な学者が判断した事以外を簡単に切り捨ててしまう手法があります。

実はこの「陰謀論」という言葉自体、政治的な用語として恣意的に流行らされたという説があります。「陰謀」というと悪事がはっきりしてしまうので、このような言葉で悪事を指摘する勢力を駆逐できるということで考え出されたようです。

今でもテレビだけを見ている方の中には、「何かよくわからない主張をしている陰謀論者がいて世を騒がせている」という発想をする方がいるようですが、テレビのプロパガンダに見事に乗せられていると思いますので少し注意が必要かと思います。

現在SNSも似たような状況にありますが、ツイッターが最近言論統制をやめましたので、かなり真実を読むことができると思います。ぜひ一度本当に「陰謀論」なのかあるいは「陰謀」なのか読まれて判断することをお勧めします。

 最近は、何か新しい事を言おうとすると「エビデンスもない陰謀論」ということで、実際社会における新しい探求や発想は大きく阻害がされているようになりました。

今真剣に真実を追及している科学者の皆さんは本当に大変だと思います。もちろんテレビに出てきて明らかに非科学的なことを述べている肩書のある教授のことではありません。

現場で日夜研究している方の事です。

真実を追及する姿勢

 これからの時代は、おそらく今よりも「真実が何であるのか」を自由に探求していけるようになると思います。

現在政治による科学への弾圧とも呼べる統制が極限まで進んでしまっているので、未来は暗いように感じてしまいがちですが、そうはならないでしょう。

そろそろ不自由な現在の科学の手法や真実を語らない学者の権威などに人々が嫌気を感じ始めているからです。もともと科学は学者だけのものではないのです。

むしろ科学と言うもののコンセプトが、今と違ったもっと大きな広がりを見せていくと思います。

量子力学や死後の世界への研究、あるいはこの世界自体の研究など新しい研究の分野は日夜広がりつつあります。

大手ディアでは絶対に紹介されませんが、すでに色々なところでこういう研究を一般人だけでなくノーベル賞を取った博士なども始めています。

 そこではエビデンスは、そんなに大きな意味を持たなくなるでしょう。

なぜならばたとえばこの世界が仮想現実空間であることや死後の世界があること、あるいは意識は脳内に存在しない事(量子脳理論)などを証拠を以て説明することなど最初から無理に決まっているからです。

仮想現実空間を証明するにはその空間を抜け出す必要があります。また死後の世界は死なないと行けません。意識の存在も脳内のマイクロチューブルのことはわかってもその在処については人の目で見られるはずがありません。

 その意味で科学の進歩には、ある程度の見積もりをもとに発想を広げていくという新しいやり方が重要になってくるでしょう。

逆に今の科学では情報のプラットフォームを握っている社会的権力者が、エビデンスなど簡単に偽造できてしまうという弱点が顕著になっています。

だとするならば「エビデンス、エビデンス」と声高に叫ぶことが、かえって科学を停滞させる方向に動かしてしまっていることにも私たちは気づかなくてはならないのかも知れません。

時代は大きく変わろうとしています。

まずは皆さんよく正しい情報を集めて自分の頭で考えることをしていきましょう。

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