我思う故に我あり
フランスの哲学者ルネ・デカルトの大変有名な言葉に「我思う故に我あり」というものがあります。
これはデカルトが『方法序説』という書の中で提唱した有名な命題で、「自分を含めた世界のすべてが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている自分の意識がある事だけは確実である以上、そのように意識している我だけは、その存在を疑うことができない」という意味の言葉です。
高校生の時に倫理の学習でこのデカルトの言葉を知った時には、最初よく意味がわかりませんでした。その時の私と同様に、多くの人は、最初にこの言葉を聞いても「何を当たり前の事を言っているのか」という感じかもしれません。
今思うと、それは普段から徹底して考えるという事をしていなかったからだと自分では思っています。そして誰もがそうかもしれません。
というのは、この言葉の前提にある「すべてが虚偽だとしても」という部分が、ほとんどの人にとって実感を持ってとらえることができないからなのだと思います。
しかしこのデカルトの言葉は、彼が量子力学など全く生まれてもいない17世紀(量子力学の始まりは19世紀)を生きた人でありながら、この世界の真実を思考だけで見事に見抜いていたことがわかる大変重みのある言葉なのです。
もし世界は自分だけが存在する場所だったら
私たちは幼いころから、というよりも幼少期において、「世界の中心は自分であり、世界は自分中心に動いている」という感覚や思考を働かせています。
これはいわゆるエゴの側面もあるのですが、実質的に本当にそうだからそう感じていたという可能性もあります。
最近スピリチュアル界隈で盛り上がっているワンネスの考え方や「世界を想像しているのは自分である。なぜなら自分が生まれて意識するまで世界は認識できなかったから」というような考え方に親和性があります。
そして誰もが思った事があるのではないでしょうか?
その扉の向こうには、本当にいつも世界は存在しているのか?
ひょっとして自分の見ていない時には何もないのではないか?
自分が見たときだけ世界はあるのではないか?
それもそうです。自分が見ていないものが本当に存在するかどうかは、自分には絶対に判定ができないからです。
でも当然隣の部屋には机があると確信しているのは、自分の記憶にそれがあり、それを全く疑っていないからです。またほかの人もそれを当然の真実として確信しているからです。
とすれば私たちが「ある」と思っているこの世界は「私の記憶」の中にあるとしか言えません。そして他人というものも、本当に存在するかどうかはわかりません。自分ではないからです。
また、あなたが今現実に意識して見ている目の前の世界であっても、それが本当に存在するのかどうかわかりません。
ただこの一連の考え方は、物事を疑いやすい私のようなタイプの人間にはピンと来ても、素直に物事を考えてしまう人にはなかなかピンと来ないようです。
事実、学生時代にこの話を友人に何回しても、その伝えたい意味すら分かってもらえませんでした。当時の私の説明が分かりにくかったのもあるでしょうが、目の前にあるものが「存在しない可能性がある」ということが友人にはどうしても感覚としてわからなかったようです。
これを読んでいる方の中にも、この点がなかなか理解できない方も多いと思うので、今度は科学的な面からこの事を説明したいと思います。
この「世界は実在しないかも知れない」という事を明らかにした科学があるのです。
それが量子力学です。
波動と粒子の二重性
このブログではこれまでにも量子力学については何回もご紹介をしており、中でも「この世界が仮想現実である」というシミュレーション仮説については繰り返し記事で説明をしてきました。
ご興味のある方はこちらもお読みください。
今回は詳説は避けますが、量子力学において判明した波動と粒子の二重性の原理により、この世界を構成している最小単位の存在であるもの(=現在はそれはひも状のものであるとされ、それは振動によりエネルギーを生んでいると言われています=超弦理論)が、
私たちが見ている時には粒子として存在し、私たちが見ていない時には波としてぼんやりとしたものとして空間に存在しているということが分かってきました。
つまり、上記の扉を開けるまでは、そこには物体が存在せず、ただぼんやりとした何もない空間があり、私たちが扉を開けてそこを見る瞬間に、そこに机が現れるというのです。
まあ、こんなことを私が子どものころに言えば「お前は馬鹿か、勉強して寝ろ」と言われてしまったかもしれませんが、現在はこの量子力学はノーベル賞学者を含む多くの学者によって研究が進み、日々この世界の新しい心理が解き明かされています。
もちろん、波動と粒子の二面性も超弦理論も、直接隣の部屋の机が存在しないという事を言っているのではないので、あくまで現実への適用は私たちの推測の範囲を出てはいませんが、「この世界が仮想現実である」という、量子力学の世界ではすでに多くの学者が賛同している新しい世界観をもってすれば、きわめて分かり易くこの世界の真実を説明できそうな気がします。
つまり、この世界がゲームのような仮想現実であり、ゲームにおいて動作が重くならないように、同時に動作している所をできるだけ省力化するように、世界は原則として可変的な波動の形で構成されている。
そして人間がそれぞれ意識によって、そこを見るときだけ、その範囲で波動が粒子化して物体が現出するように「その人間には見える」という事が真実なのではないかということです。
そうすれば人それぞれの見ている世界が微妙に異なることも説明できます。
世界の物質的構成については、基本的な設計図があり、たとえば隣の机の色や形や堅さについては、誰が触ってもほぼ同じように感じるものが粒子として現出するようになっているのでしょう。
こう考えるとかなり合理的にこの世界の仕組みを考えることは可能です。
ただもちろん「なぜそんな世界に作られているのか」「だれがそのゲーム空間ともいえる仮想現実をつくったのか」という事はわかりません。
また、わかることは絶対にないでしょう。
逆にもしこれが真実だとして何か世界が変わるのかと言えば、実は全く変わりませんし、私たちの生活にも何も影響はありません。
一つ言えるのは、「世界は巨大で、自分はその中の本当にちっぽけな存在に過ぎない」というのは全く幻想であるということです。
自分の意識が世界を現出させているということが、このように量子力学という科学を通してほぼ証明されたということは、大変凄いことで、
「じゃあ意識を変えれば世界は変わるのでは?」という結論に当然なって来ると思います。
『トゥルーマンショー』
『トゥルーマン・ショー』というアメリカ映画があります。ネタバレになりますので、ご自分で見たい方は少しここは飛ばし読みしてください。
あらすじ
ジムキャリー演じる主人公の青年トゥルーマン・バーバンクはある離島で暮らしていますが、生まれてから1度も島から出たことがなく、自分では普通に生活していると思っていたのですが、彼のすべての生活は作り物で、実は生まれた時から人生全てを24時間撮影されていて、それをテレビ番組の『トゥルーマン・ショー』として世界中で放送され続けていたというストーリーです。
彼が世界と信じていた場所はすべて巨大なドーム状のセットに過ぎず、太陽や月や星も照明装置で雨や雷などさえ演出に過ぎませんでした。そして何より、トゥルーマン以外の人物は全て俳優に過ぎなかったのです。
そして彼がついにそれに気づく日がやってきます・・・
この映画は、まさに私たち自身の感覚としての世界へのイメージと重なる部分があります。この映画を見たときに、私は「ああこれはデカルトのあの言葉と関係しているな」と感じたものです。
私たちはこの世界を現実に存在する確固たるものと信じきっていますが、実はそうではないかも知れないということです。
机は本当に堅いのか
現在の量子力学でわかってきたことの中に、物質は現実に堅いのではなく、中身はスカスカの空間であって、ただ極小の粒子が猛スピードで回転していて、そのエネルギーにより私たちの手がそれを触った際には堅いと感じるに過ぎないというものがあります。
だから映画マトリックスで出てきたように、この現実世界のすべてが、ホログラムのようなもので、私たちの触覚さえもあてにはならないということです。
机は本当に存在するのではなく、私たちの五感が存在すると意識するようになっているだけの可能性も高いと言えます。
デカルトの先見性
こう考えてくると「我思う故に我あり」を17世紀に唱えたデカルトの思考力の高さに驚きを感じざるをえません。
彼の考えの底には、おそらく「世界は本当は幻に違いない」という思考があったのではないかと思います。
このようにして世界が実際にあるかどうか、物質が本当にあるかどうかを考えていき、可能性ではなく、確かにそう言える物事を残して余計なものを削り取っていくと
最後に残るのは、「物事を考えている、意識を持っている自分」だけであるという結論になります。
意識を持って何かを考えているという主体が自分であることだけは、揺り動かすことができない真実です。
仮想現実の世界であるとすれば、究極的には自分の肉体さえも、本当にあるものかどうかさえ不明になりますが、それでも思考というものだけは間違いなく現存するからです。
そう思うとこの世界で最も大切であり、確かなものは「意識と思考」という事になります。
「どう考えるか」これが実は人生そのものなのではないでしょうか。
仮想現実であり、実在自体があやふやな世界であれば、お金や富はもちろん名誉や仕事などもすべて仮のもの=道具に過ぎない事になります。
そうであれば、この世界では、実は物事の結果ではなくて「何をどう考えて」それをやったのかということが、大変重要な意味を持っているという気がしてなりません。
皆さんも、時間のある時にこんなことを一度ゆっくり考えてみるのもいいですよ。