【絶対評価の弊害】合理的学習を阻む「誤った評価」に対抗する方法とは?

 学校での評価の基準は、いわゆる絶対評価によるものとされています。

 平成14年以降「集団に準拠した評価」(いわゆる相対評価)から、「目標に準拠した評価」(いわゆる絶対評価)へと大きく転換が行われたとされています。

 成績評価の歴史を遡って見てみると、古くはクラスの中で得点による相対的な位置を成績の基準とするものとされていて、

昭和23年頃の資料によれば、相対評価の基準が 5は7%、4は24%、3は38%、2は24%、2は7%とされていました。

その後「割合を固定せず流動的でもよい」とされるようにされるなど状況の変化もありましたが、

昭和55年頃からは、いわゆる「観点別学習状況評価」が導入されました。これは絶対評価的なもので、相対評価を絶対評価が補完するような役割を果たしていたように思います。

 平成12年頃(正式実施は14年)からは更に到達度評価として強化されて、「観点別学習状況評価」だけでなく、最終的な結論にあたる「評定」についても絶対評価となりました。

 ただ学校ごと教師ごとの評価の偏りが問題となり、その後色々な調査や修正が加えられているようです。

 私は長く生徒を指導しているため、通知表というものを多く見ていますが

適正でない通知表の評定による受験生の苦しみというものを、過去にたくさん見てきました。

 今回の稿では詳しくは触れませんが、これは相対評価・絶対評価という制度の変遷によるよりも、生徒の将来が自分の判断にかかっているという認識が甘い学校の先生が、少なからずいるということによる悲劇であると思っています。

絶対評価の実際

 絶対評価導入後の通知表の実際として

「4や5の評価が増えた」

「1や2が少なくなった」

「3ばかりの通知表は減った」

という記事をよく見かけます。

 確かに「4や5の評価が増えた」というのはその通りですが、

あとの2つはそんなに変わらない、むしろ「3ばかりの通知表」は多くなったという気がしています。

 絶対評価というのは悪い制度ではありません。

相対評価ではどうしても母体となる集団のレベルの差による不合理を回避できなくなるので、絶対評価を用いることになるのはむしろ意義が大きいと考えています。

 ただ評価をする先生が事なかれ主義で、到達度の設定や判定が辛く「とりあえず3かな」「そんなに4や5を出してもおかしいし」というような評価をすれば、中央の数字である3の判定は簡単に続出します。

現に特定の学校の特定の学年で「3ばかりの通知表」をたくさん見ることがあります。

「3ばかりの通知表」は先生方の自信のなさの表れという気もします。

 「現在は数値的に基準があるのでそんなことはない」という方もいますが、

やはり絶対評価は主観が大きく反映されてしまう(そうでなければ逆にメリットもない)制度であることは否定しようがありません。

また、そういう影響はあると感じています。

塾の指導現場で生徒の成績を観察し続けている実感からすると、おそらく成績のつけ方の変化いついては、学校の現場よりも真実の姿が見えているような気がします。

 そこで今回は、絶対評価による生徒への弊害と対策をお伝えしたいと思います。

内申美人の悲劇

 絶対評価下では、テストの得点力だけでなく色々な努力の過程が評価の対象になります。

だから一生懸命努力をする生徒が、以前より達成度が上がれば評定を上げることができる建前です。

 しかし先生によっては生徒が「真面目である」「コツコツやる」「丁寧にやる」という行動そのものに高い評価をつけている方が少なからずいると感じます。数値基準もそうなるように設定してあるのだと思います。

その姿勢は確かに価値のあるものですが、「達成度が上がる」「到達度が高い」という肝心の部分が希薄でも

「頑張ったからな、結果は出てないけどご褒美だ」というのでは

それは単なる主観的評価になってしまいます。

 ひどい場合には性格的に明朗であったり、教師と話が合うというだけで評定が上がるという話もあります。そもそもそのような評価をする者は教師になるべきではありません。

 では、この主観的な「誤った評価」のツケはどこで出ると思いますか?

不幸なことですが、ツケは不適正な判定をした教師ではなく、生徒本人に後日降りかかってくることになります。

 巷で言われる「内申美人(実力に不相応な高い内申点で合格してしまう事例)」というのは実は結構ある話です。

塾では模試をやりますので、成績順に一覧表を見ることができます。

一般の方は漠然と

「上位は内申点も良く、下位は内申点が悪い」と思われる方が多いと思います。

しかし実際は全く異なります。

トップの得点を取っている偏差値が70近い生徒の内申(評定点)が30に届かず

一番下位の得点(偏差値30台)の内申点が35~6というようなことは普通にあります。

絶対評価による評定と言うのはそういうものなのです。

 だから受験当日どんなに高得点を取っても志望校に合格できない生徒がいると同時に

当日低い得点でも合格する生徒はいます。

これは何も不公正な話ではなく、現在の制度では当然の話になります。

 でも、問題はそこから先の事です。

「実力がないが高い内申点で合格をした生徒」は

多くの場合真面目に一生懸命努力をしますが、

その努力が結果に結びつかない努力をしてしまう場合には、学校の進度についていくことができなくなります。

 そして良くないことに、努力や頑張りを高く評価されているが、実際に結果を出せていない生徒には

合理的な勉強のやり方が上手く身についていない場合があるのです。

 なぜかと言えば

学校の先生が、生徒に対して正しい評価をしていないからです。

結果の出ない努力は、いくら一生懸命でコツコツやっていたとしても、それは「誤った努力」であるということを全く教えないからです。

 高い内申点だけで合格してしまってついていけず、その後大変になった例は実際にかなりあります。

 そのような悲劇を避けるためには、次のような対策が必要です。

①まず受験前に模試を必ず受験してください。塾に通っていなくても模試は受験すべきです。模試の成績で、実際に自分の内申点ならどれくらいの得点を取らなくてはいけないかを確認するようにします。

②次に模試の成績を基準として、受験するかどうかをもう一度客観的に考えるようにしてください。特に理数系が苦手な場合に自分のレベルを超えて進学すると、高校の学習のスピードについていけなくなる危険があります。

③もう一点、「内申点が高いが得点が低い」ということは、勉強のやり方に無駄が多い可能性があります。受験は自分の学習法を見直すちょうどよい機会だと思います。形だけの学習になっていないかを真剣に考え直して見てください。

実力より内申点が低い場合

 逆に得点力があるのに、内申の評定が低い生徒も多く見かけます。

こちらの場合はむしろ「要領が良い」学習のやり方を知っていて、

学校の課題とか授業でポイントを稼ぐということを軽視していることが原因になることが多いです。

この場合によく相談を受けるのが、「内申が足りないから受験をあきらめた方がいいか」ということです。

 子どもには情報がありませんし、学校の先生も「内申点」を基準に志望校を勧めることが多いので、実力がかなりあるのに志望校を簡単に諦めてしまう例が毎年後を絶ちません。

これもまた悲劇です。

①この場合は逆に、安易に諦めてしまう前に内申を少しでも上げる工夫をすべきです。

②また、志望を安易に変えることは避けるべきです。

 こういうことを言うと、学校の先生に反発を受けるかも知れませんが、

内申点など、工夫次第で短期間に簡単に上げられます。

自分が「意味がない」「無駄だ」と思っている課題や普段の取り組みをきちんとやるとか

授業の際にやる気のある姿勢を強くアピールするとか、そんなことでも内申点は結構上がります。

 というより先生たちは、やる気のある姿勢を見せた生徒について内申を上げざるを得ないのです。

そもそもこの場合、結果はすでに出せている生徒なのですから。

頼れるのは合理的学習法  

 学習を続ける限り、頼りになるのは合理的な学習法です。

先生の評価をもらうためだけの形だけの学習は

内申を上げてはくれますが、ずっと役に立つものではありません。

 「結果」にこだわるという、ごく当たり前のことを考えるようにすれば

どんな時も間違いがないと思います。

短時間で

無駄がなく

正しい解答ができるようにできるようになる。

どうしたらそれが可能かを

いつも考えて学習をするというのが

最も大切です。

「結果につながらない努力」は美徳かも知れませんが

勉強の世界では残念ながら

「時間の浪費」ということになります。

今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。

“【絶対評価の弊害】合理的学習を阻む「誤った評価」に対抗する方法とは?” への2件の返信

  1. 教育現場の真実を知って、とても勉強になりました。早速中3の生徒の指導にいかしていきたいと思います。

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